ソガイ

批評と創作を行う永久機関

筆まかせ17

1月9日

 

鴻上尚史が書いたという新成人への言葉にあつまる称賛には、いささか気味の悪さを覚えた*1。もちろん感性は人それぞれではあるが、だとしてもここまで称賛される意味は分からない。理由は単純で、別に大した文章ではないからだ。「自分の頭で考えよう」「『らしい』という言葉にとらわれるな」「そのために本を読もう」。どれもこれもがあまりにも「いかにもだな」といったところで、何一つ目新しものではない。「僕は、日本の若者に深く同情します」というところは理解者、味方であることのアピールなのだろうが、妙に上から目線で私はイラッとした。全体的によくある年長者のお説教ではないか。

それだけではない。たとえば「陰湿な奴ほど、ちゃんとした服装をしていじめることをみんな知っています」などという箇所はあまりにも雑な論理であり、この種の「ちゃんとしている奴ほど怖い」的な文法は、いつも進学校の優秀な生徒が悪いことをしていて、不良校のヤンキーには正義感があるという『ごくせん』の世界観を思わせ、いまどきまだこんなことを堂々と言っているのかと乾いた笑いが洩れた。それに、退屈な国語の授業と本屋の面白い本という対比も、あまりにもありきたりだ。故に、文章として質の高いものだとも到底思えない。

しかし一番の問題は、鴻上がこの文章について、もともと依頼を受けていた時事通信に20箇所以上の「直し」を受けた、その中には「体言止めが美しい」などというものもあり受け入れられず、決裂した、などと語っていることについて、あまりにも多くの人が素朴に信じているところだろう。日頃、少しSNSを見ていればこのようなことは不思議でもなんでもないのは分かっているが、だとしても、私にはかように皆が簡単に一面的な情報を信じて時事通信を糾弾できてしまうことがどうにも信じられない。

まず第一に、本人の言葉というものは案外信頼が置けないものだ。人間は意識するせざるにかかわらず、物事を自分の都合の良いように解釈、脚色して語る。ときにはまったくの虚構を、本人は本当だと思って語ってしまうことだってある。周辺情報を確認しないと、そう簡単に真偽は判断できない。

しかも、今回鴻上はこのツイートで自身の正当性を主張しようとしている。であれば、なおさら自分に不利なことを言うはずがない。そのようなときが一番怪しく、そして危ないのであるから、事実はどうであれ最初は眉に唾をつけて見るくらいがちょうどいい。

事実、今回の鴻上の発言はこれだけではどうにも判断がつけられない。たとえばいま、この発言を巡って「体言止め」だけが一人歩きしている感もあるが、鴻上はその全部が体言止めの直しを受けたとは一応言っていない。もしかしたら体言止め云々はそのうちのひとつに過ぎず、あとは単純な誤字や言い回し、あるいは根本的に内容に対する指摘だったのかもしれない。体言止め云々が最もインパクトのあるものだったのだろうか。だとすればアンフェアな印象も受ける。やや意地悪な見方をすれば、ここに載せた文章はまさか20箇所以上の内のいくつかの単純な誤字の指摘などは反映させた上でのものではないよな、と勘ぐってもみることもできなくはない。そのような疑惑が残ってしまうのだから、いっそのことその「直し」とやらを全部見せて欲しいものだ。ここまでしておいて今更、時事通信との守秘義務もなにもないだろう。

それに、当たり前だが発言の内容だけではなく、発言者その人についても多少は頭に入れておく必要はあるだろう。なにより、鴻上は以前にも表記の揺れについて、校正を一方的に悪者にしたツイートで注目を集めたことがあるのだから*2。その際に私が感じたのは、この人はもしかして編集と校正の区別がついていないのではないか。あるいは、自分の文章が発表、出版されるまでの過程をなにも分かってはいないのではないか、ということだった。この推測は間違っていて欲しいと思っているが、しかしそれを抜きにしても、この人は自分を正当化するためならば協働者であろうがSNSで不特定多数に向けて平気で悪し様に言える人なんだ、と思わされた。もっとも鴻上を擁護するわけではないが、このような書き手はそれほど珍しくもないように見受けられる。

細かい話は割愛するが、そのときの話は、言いたいことは分からないではないが、相手になにも伝えずに表記の揺れの意図を尊重しろ、というわがままなものであり、しかも鴻上は同じようなことを何年もずっと言っている。編集を通して、自分の文章は表記統一は一切不要(もっとも、その際は単なるケアレスミスの表記揺れも自分で責任を持つ必要がある)、とでも伝えればいいだけの話なのに、一向にそれもせず同じ不満を公の文章に書き続けて自分の正当性を主張していることは、書き手によくある傲慢に過ぎないではないか、と思った*3

しかもこのときは後の弁明?で、「今回は編集者が不在で〜」などと後出しで意味不明なことを言っており、編集がいないなら一体だれが依頼し、進行しているんだ? 校正者が編集者を介さず直接著者に校正結果を送ったというのか? 鴻上の勘違いでないとすればむしろ問題はその出版社の体制だろう、と別の心配をしたものだ。どうやら出版社の都合でそういうこともある、とのことだが、こういうことを避けるために編集者がいるのではないか。私のような人間には分からない出版の世界があるのかもしれないがそれは措くとして、だとしたらそれは最初に言うべきだろう。何万ものフォロワーを抱えながら迂闊な言い方で校正者叩きの動きを広めておいて、「落ち着いて」からちょろっと言い訳じみたフォローで「僕は校正・校閲はとても大切だと思っているし感謝もしています」などと言われても、素直に受け止められるわけがなかろう。編集者よりも校正者の方が攻撃しやすい、との打算もあったのではないかと邪推のひとつもしたくなる。この一連の騒動を傍から見ていた私は、そうか、この人はこういう人なんだな、と思ったものだ。

先の服装云々についてもそうだが、この人はどうにも筆が滑るというか、言葉の使い方が少々迂闊なのではないか。彼がどのような仕事を受けているのか分からないが、そもそも基本的に校正は文章を「直す」ことができない。できるのは指摘か疑問の提示だ。別に校正の結果をすべて無視したって構わないのだ。よく「校正の赤字」などというが、少なくとも私は3年間出版社で仕事してきて、赤字を入れる機会などそうあるものではない。鉛筆は限界まで使って1ダース近く消費したが、赤ペンはいまだにインクがぎっしりだ。インクがなくなるよりもペン先が固まる方が早そうな勢いだ。

そのところを本当になにも分かっていない可能性もあるにはあるが、このような雑な言葉の使い方をしておいて「駄目」と「だめ」と「ダメ」のニュアンスの違いを語られてもなあ、それよりも前にもっとちゃんとやるべきことがあるだろうと呆れたがそれは措き、少なくともこれらの件を通じ、私は、鴻上はわりと自己中心的な書き手なのではないか、と思っている。故になおさら、今回の鴻上の言葉を鵜呑みにはできない。

そもそも本当に「体言止めが美しい」とそのまま言ったのかどうか。鴻上は「『体言止めが美しい』というような」と言っており、この「というような」はどうとでもとれ、かなり厄介だ。第一これを誰が言ったのかすら分からないのだが、たとえば編集が、字数の問題で一部削らなくてはならないなかで、するとこの箇所を体言止めにすれば違和感なく引き締まりますけどどうします?くらいのことを言ったのを曲解している可能性だって、ないわけではない。

しかし、この際鴻上自身については最早どうでもいい。先述したように問題は、この文章を、こういう言い方は好きではないが一般人のみならず、作家や出版社も称賛していることだ*4。ここには現代に蔓延るクリエイター至上主義にともなう表現者のフォロワーであることへの自尊心もあるだろうし、そもそもSNSに集まる人間が相当に自己承認欲求をこじらせていて、故にここを世間のサンプルとして見ること自体が間違っているのかもしれないが、しかしここには間違いなく、「大物劇作家の文章が時事通信に理不尽ないちゃもんをつけられて掲載拒否された」という「物語」に酔っているところがあるのではないか。これが単にそのままどこかの媒体に載っただけならば、ここまで称賛はされなかっただろう。

これは幻冬舎から刊行できなくなった津原泰水『ヒッキーヒッキーシェイク』が早川書房から刊行されることになった際に起こった津原泰水の神格化でも感じた。早川書房は津原を「現代最高の小説家」などと帯で煽り、「悪の組織・幻冬舎に理不尽な扱いを受けた正義の作家・津原泰水」という物語にしたたかに、あるいは厚顔無恥にも乗ってセールスを行ったわけだが、それに多くの読書好き、作家も案外簡単に追従した。あるいは盲従した、といってもいいだろう。私は津原に対して元からいい印象がなかったがそれは抜きにしても、あの空気の気持ち悪さが、私に本や小説に対する不信感を芽生えさせたひとつのきっかけでもあった。

もちろん、ある文章はただ純粋にそれのみによって評価されたり解釈されたりするものではない。どんなものでもなにかしらのコンテクストに回収され、影響され、そして変えられていく。それ自体は批判することではない。

しかし、そのような「物語」によって対象そのものに対する評価が変わってしまう現象に慎重になり、ときには俯瞰的に、批判的にそのものを見ることこそが、いうなれば自分の頭でものを考えるということではないのか。大手マスコミに「掲載拒否」された、有名劇作家が書いた、多くの人が称賛している、という空気に浸かってあの大したことのない、かつ明確な瑕疵のある文章を無批判に称賛している状況がまさに、雰囲気だけで、自分の頭でものを考えていないあらわれではないか。

結局、本を読んだところでこれでは仕方がないし、どうしようもない。もちろん本は読めばいいがそのあとのことが大事だし、それにもっと他のこともした方がいいのではないだろうか。むしろ、本を読んでばかりでは自分の頭では考えなくなるような気さえする。運動もすればいいし、友人とだべるものいい。旅行をしたり、あるいは仕事に一生懸命取り組むのもいい。本を読むこと、それ自体は別に大したことでもない。

第一、「自分の頭で考える」などと言うが、それはそんなに自明なことなのか。そもそもいま使っている「言葉」自体が共通の形のもので、自分自身のものではないのだ。そのことを意識せずに「自分の頭」で考えようとすると、そんなにみな大差のないところに行き着くのだ。ツイッターを見ていれば分かるだろう。大体同じようなことしか言っていないではないか。しかも言葉遣いまで似てくる。おぞましい光景だ。

「自分の頭で考える」というのはそれほど自明でもない。とはいえ、だったらなにも考えなくていい、というのではない。たとえば今回のことのように皆がやたら絶賛しているときに、本当にそんなに良いものなのだろうか、ここにはなにか別の力学が働いてやいまいか、と少し立ち止まって疑ってみる、そんな一呼吸がおけるようになれれば十分ではないだろうか。そんな当たり前のことを、と言われるかもしれないが、実のところ、これができている人、意識できている人はそう多くないように見受けられる。

それにしても、本読みを自称する人などでもこうなのだと思うと、徒労感に苛まれる。もっとも私は別にこれらの読者に目配せする必要もないわけだが、だとすると先日、書店に行ったのに胸がときめく瞬間が一瞬たりともなく、こんなことは初めてだったので大きなショックを受けたのだが、あれはそういうことだったのだろうか、と嫌な納得もできてしまう。もう私はお呼びではないのだ、と諦めてしまうこともできるのかもしれないが、まだそれはしたくない。今年一年、改めて出版、言語というものを真剣に見つめ直さねばならないだろうと思わされた。ふつふつと考えていたことを、行動に移す決心がついた。それについては感謝もしている。

もし彼らに伝える言葉があるとすれば、この一言に尽きるだろう。

ありがとう。そしてさようなら。

*1:

https://twitter.com/KOKAMIShoji/status/1611178777027174408 閲覧日2023/01/11

*2:

https://twitter.com/KOKAMIShoji/status/1362773332064497669 閲覧日2023/01/11

*3:本人曰く、それをするとどのレベルまでそれをするのか詳しく問われて、それをすべては決められない、とのことでもあった。確かにそうではあるが、では本人でも分からないものを校正者がどう判断すればいいと言うのだろうか。単なる変換ミスと意図的な表記揺れの区別がつく方法があるならば教えて欲しいものだ。つけ加えると、文章の性格や分量などにもよるが、私だったら基本的にそこまでの統一の指摘はしないとは思う。しかしそれは、その点は著者と直接やりとりしているはずの編集者が分かっているだろう、と見なすからであり、後述のように「編集者が不在」であるならばどうしようか……。

*4:岩波書店が、自社の鴻上の著書の宣伝をするためだろうか、この文章に感動の意を恥ずかしげもなく表しているのにはがっかりした。

https://twitter.com/Iwanamishoten/status/1611278899605897216 閲覧日2023/01/11