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読書日記的備忘録 2025年1月—遅れた初詣〜抑制とユーモア

2025年1月

 年末にインフルエンザを発症し、数日間、床に臥しているといつの間にか年が明けていた。

 当たり前のことであるが、元気がない時に本を読むのは難しい。辛いときには最低限のことしかできない。これは即ち、本というものは読まなくても死にはしない、ということも意味する。「本好き」界隈にいると、本は人間に必要不可欠なものであるとする言説によく接する。その中には、本を読まない人が人間的に劣っているかのような認識を隠そうともしない、少し自分の内面にある偏見に対して無反省過ぎやしないかと思われるものもしばしばあるが、この手の主張は結構肯定的に受け入れられている。自分が好きなものを褒められると、反射的に喜んでしまうものである。

 本というものはインフラであり、非常に重要なものだと私も思っている。一方で、商業面においては本が生活必需品から嗜好品へと比重が移る中で、本を読むとは一体なんなんだろう、と根本的なところに立ち返って考える必要性を強く感じている。

 早速であるが、今月読んで一番良かった本は、曾根博義『私の文学渉猟』(夏葉社)だ。2016年に亡くなった曾根は、主に伊藤整などを専門にした日本近代文学研究者。本書はどちらかと言えば、「日本古書通信」などに掲載された読み物的な文章をまとめたものになっている。

 私が著者について好ましく思うのは、やはり作品そのものだけではなく、本の形や出版事情、当時の社会状況など、作品を取り巻くさまざまなものにもしっかりと目を向け、かつ、社会を論じる、あるいは自身の政治的立場を主張するために作品を恣意的に切り刻むような方向にはならないことだ。言うは易しだが、これが難しい。テクストの内と外にバランスよく視線を向けること。それは内へ2分の1、外に2分の1、というのではなく、どちらにも1を注ぐことが求められる。そのうえで締まった文章として表すためには、2ではなく1に近づける抑制を自分に課さねばならない。怠惰に流れる自分を律し、饒舌に走る自分を抑える。その実、ストイックさを強く求められる姿勢なのだ。

 本書で最も文学研究的な文章なのは、第四章「伊藤整と私小説」だろう。ここで私が思わず線を引いたのは、たとえばこんな一節だ。「伊藤整の敵は、心境小説家にかぎらず、およそ自己の存在に疑いや不安を抱かず、自分のしていることがそのまま社会的善につながるという暗黙の了解を持っている文学者たちだった。いわば自意識の欠落したそのような楽観的立場に立っている点で、一部のプロレタリア文学者たちも、伊藤整の激しい反撥の対象になったのだった」(362頁)。無論当人らには異議があるだろうが、現代文学においてもこの種の「暗黙の了解」がかなり幅を利かせているように、私には感じられる。これは作家個人の問題ではない。編集を含めた出版業界の内部事情、それを取り巻く外部の空気、さまざまなものが文学というものを社会に対する政治的立場の表明、現状への抵抗へと意味づけているのではないか。

 伊藤整は戦後、谷崎潤一郎を高く評価した。谷崎は当時、しばしば「思想」がないと批判された。だが、この時の「思想」とは社会や政治的なものに限定されている。作家にとっての思想とは、それだけではない。谷崎は、「女性に支配され、女性に征服されることに至上の喜びと生きがいを見出す男性の姿」というテーマを追求し続けた。その谷崎に、なぜ思想がないと言えるのか。伊藤整はそう評した。翻って現代に目を向けると、この括弧付きの「思想」がますます存在感を増し、それ以外の思想は文学の領域で押し潰されているように感じる。谷崎の思想が「思想」と比して優れている、というのではない。この歪な不均衡について、もう少し自覚的になってもいいのではないか、ということだ。「思想」偏重への固執が、その目を曇らせることもあると思うからだ。

 2003年の昭和文学会秋季大会のシンポジウムでのこと。小林秀雄が太平洋戦争開戦直後に発表した「三つの放送」について、その戦争讃美の言葉を「自意識を放棄した美しさがあり、魅力がある、問題は思想ではなく美なのだ」と絶賛した発表者の評価にほとんどの者が共感し、「大きな歴史的節目に立ち会った際、優れた知性、感性を持った人々の反応には、共通するものがあるようだ」(松本徹)などと評したことに対し、曾根は「一読して、当時、文学者や知識人がこぞって発表した千篇一律の文章の一つに過ぎず、『小林秀雄、お前もか』という思いを禁じ得なかった」「ここに見られる緊張した覚悟や決意が見事で美しいというのなら、雑誌や新聞から求められて開戦の感慨を述べたほとんどすべての知識人・文学者の文章も同様に見事で美しいと言わなければならない」と反感を覚える。「誠実だとか美しいとかだけで済ますことの出来ない傷ましい問題がそこにはあ」り、「なぜ知識人や文学者の大半が申し合わせたようにほとんど同質の誠実で美しい戦争讃美の言葉を発してしまったのか、しかも、戦後はそんな戦時中の発言を自ら忘却、隠蔽することによって物を書き続けようとしたのか、そのことをよく考えてみなければならない」と。

 事実、その小林の「三つの放送」は私には大したものには思えず、「小林秀雄」という固有名を伏せれば当時の凡百の「知識人」のものと変わらない。私もまた、「小林秀雄、お前もか」という嘆息が漏れるのと同時に、「小林秀雄でもこうなのか」と背筋が寒くなる思いがした。戦争、ひいては時局というものの恐ろしさをまざまざと見せつけ、私たちを絶望させるにたる文章だ。しかし、その絶望の中から考え続けることでしか、この大きな流れには抗えないのだろう、という思いも強くさせる。

 だが、その会の研究者たちはこれを美しいと絶賛した。あるいはそれも「空気」なるもののなせる業なのかもしれないが、同時に、発表者が「問題は思想ではなく美なのだ」と評していたことに引っかかる。ここで言われる思想とは、やはり括弧付きの「思想」だろう。発表者はなぜ、このとき「思想」を斥けて「美」という評価軸を提示したのか。それはこの小林の文章が、「思想」という観点からは肯定的に評価のしようのないものだと分かっていたからなのではないか。それでも無理くり小林秀雄を評価するために「美」を持ち出した。そう考えることもできる。非常に苦しいものを感じる。

 だが、文学をもっと広い思想で見る視点があれば、この小林の文章に出会ったときにまた別のリアクションを起こせていたのではないか。少々牽強付会かもしれないが、そんな風にも思った。

 現代の「思想」偏重の文学シーンで高いポジションを得ている数々の作家を考えると、状況が変わればこの「三つの放送」の方向へ容易に流れそうだ。思うに、ここで曾根が提示した問題点を、日本文学は根っこの部分ではなおざりにしてきたのではないか。また細かいことで言えば、「知性」とか「感性」というなんかそれっぽく使える褒め言葉は、ちゃんと考えてから用いるべきかもな、とも感じた。

 しかし本書は、これらのことを抜きにして、単純に読み物としても抑制がきいていて良かった。饒舌すぎる文章が氾濫する世の中において、このような本はより一層、得難いものになっていくのだろうか。

 体調が恢復し、印刷博物館の企画展「写真植字の百年」にぎりぎりで足を運ぶことができた。白状すると、活版印刷とDTPについてはある程度明確なイメージを持っているが、その間の時期にあった写植は、知識としてはあっても具体的な映像がなく、なんとなくの抽象的な理解をしてきていた。映像や実際の写植機を見て、以前よりも大分、写植というものの印象が深まった。

 写植の歴史やその功績については他に譲るとして、本展示で個人的に一番印象に残っているのは、写植の登場、進化によって、デザイナーの高度な要求に応えられるようになった、というものだ。特にアキやツメは、活版と比較して断然容易になったはずだ。

 技術と人間の思考は、どちらがどちらに先行する、というものではない。人間の要求が技術を生むのと同時に、新しい技術が人間に別の想像力を起こす。それが嚙み合ったとき、技術は爆発的に広まることになる。写植も、きっとその一つだ。

 一方で、なんでもできるようになる、ということが果たして必ずしも成果物に良い影響を及ぼすのかどうか。これはDTPにほぼ完全に置き換わった現代において尚更だが、人間が意識的には知覚できないような差まで操作できてしまうことによってそこにも手が及ぶようになり、ただ徒に数値に淫する傾向もありやしないか。自分の「最小単位」というものを、自分で意識的に決めなくてはならない時代なのかもしれない。

 もう少し写植について考えてみたい。そう思い、長らく積んでいた阿部卓也『杉浦康平と写植の時代 光学技術と日本語のデザイン』(慶應義塾大学出版会)を読んでみた。書名の通り、杉浦康平を軸に、活版から写植、そしてDTPに至る日本の印刷の歴史を描いている。印刷博物館の展示の副読本、とも言える内容であり、特に写研の石井茂吉とモリサワの森澤信夫のバチバチの関係性は、本人たちの語ることが如何に信頼のおけないものであるか、というわかりやすい実例であるとともに、人間臭さが垣間見えておもしろかった。その他、いくつか興味深いテーマもあったのだが、私が本書を読んでいてとにかく気になってしまったのは、本文中に散見される、括弧による補註的な文章だ。いくつか挙げてみる。

本作が日本のグラフィックデザイン史における古典的名作というポジションを確立したのは、(中略)美術の教科書などのなかに繰り返し採用され、イメージが再表象され続けてきた結果だと言える(もちろん、その前提として作品が優れていることは疑いないが)。(48頁。下線は引用者によるもの、以下同)

森澤は星一を生涯尊敬し続け、星の一族との世代を超えた交流を続けた(二〇〇〇年に刊行された森澤の伝記では、星一の息子でSF作家の星新一が序文を寄せている)。(109頁)

女性の企業経営者が圧倒的に少数だった時代に写研の社長となり、新聞や雑誌等では「長身でお化粧もなく」「美人でやり手の女社長」「闘志マンマンの女性社長」といった(今の感覚で見れば多分にジェンダーバイアスを含んだ)切り口で言説化され続けた石井裕子は、(後略)(199頁)

残された資料から読み取れるかぎり、石井茂吉は、(物腰の温和さとは別の話として)大筋で家父長的で男性中心主義的な世界観に属する人物である。(同上)

まず『写植NOW』の概要と基本的特徴を確認しておこう。(中略)第四巻は、変形組みと、歯送り(アキ)に関する割付表になっている(組見本用の例文は文学者の外山滋比古のものだ)。(213頁)

冨美子は、若いスタッフからも慕われていた(母親的存在という男性中心的な形容を安易に用いたくないが、しかし時代性を含めて、この言葉が最も的確に冨美子のイメージを伝えるように思われる)。(350頁)

 これとは別に巻末に註釈があるのだ。にもかかわらず、このような括弧がかなりの頻度で用いられている。もちろん適切な補註もあり、やってはいけないという気もないが、しかし少なからずが徒に読みを阻害しているように感じてしまうこぼれ話だったりする。かなり序盤から、私にはこれがかなりストレスであった。

 ここには大別して、二つのタイプがある。

 一つが、2、5番目に挙げたような、知っている/知ったことをできる限り余さず書きたい、という意識だ。たとえば外山滋比古の名前は、私の読み落としがなければここでしか出てこないはずだ。また、全体の論旨にそこまで関わるものとも思えない。膨大な調べ物をしていると、その過程で様々な発見がある。ものを書く中でどうしてもその成果を示したくなるのが人情ではあるが、論旨にあまり関係ないのであれば書く必要はないのではないか。

 このようなことについて、かつて鹿島茂『神田神保町書肆街考 世界遺産的〝本の街〟の誕生から現在まで』(筑摩書房)を読んでいたときにも感じた。多岐にわたる資料を綿密に調べているのは分かる。また本書の場合は「ちくま」での全70回の連載が元になっている、という背景もあるのだろう。その上でしかし、鹿島は見つけたことを全部書いているような印象を受けた。だんだん本筋がどこにあるのかが分からなくなって辟易し、途中で読むのをやめてしまった。『杉浦康平〜』とこの本は、それなりの分厚さであることが共通している。「鈍器本」という言葉が少し前から流行っているが、分厚さは、必ずしもその本を評価する指標にはならない。場合によっては過剰な饒舌の結果を示していることもある。

 萩本欽一は、客にうけないことに焦ってオーバーアクトに走る修業時代の関根勤に、「お前の芸は、100万円を持っていたら100万円をかざしている芸だ。5万円だけ見せて、95万円は懐に持ってますよ、という芸をしなさい」とアドバイスしたという。5万円だけ見せていると、こいつは5万円しか持っていないと見て、どこかで借りてきたような6万円分程度の知識でマウントをとって悦に入るものがわんさか現れる現代ではある。その恐れを抱えつつ、しかし自己顕示欲を抑えたものが、文字通り深みのある芸、ということなのだろう。文章における芸とは、すなわち文体である。

 二つ目が、自分は分かっているよ、現代的価値観に理解があるよ、といったエクスキューズ。ジェンダー的な問題についてはあとがきで「本書の内容は、愛知淑徳大学で筆者が担当するデザイン史の授業での、受講生との対話を通じてブラッシュアップされた。若い学生が投げかける率直な疑問はいつも鋭く、議論の立脚点を見直すきっかけになった(デザインの歴史に無自覚に埋め込まれた男性中心主義性については、特に重要な指摘を複数回受けた)」(475頁)と、これまた括弧にくくりながら書いているから、その反映と見ることもできる。それに、上で書いたことと同様、書いていないことは無い、考えていないと見なして上げてもない足を上げさせて叩く「批評」が蔓延っている世の中では、そのようなリスクマネジメントも求められてくるのだろう。

 だが、このような形で著者がちょこちょこ顔を出すのは、やはり煩い。荒木優太は木村友祐「手紙」について、「『昔は女の扱いってそんなものだったんだろう。今だって根っこは何にも変わっていないと思うけど』の第二センテンスは削除したほうがよい。作者がひょっこり顔を出して、自分はそういうこともちゃんとわきまえているんですよ、といわんばかりだ。小説でやることではない」(『文芸時評傑作選』76〜77頁)と批判しているが、私は同じことがこのような評論にも、ある程度は言えるのではないかと思っている。もっとも、この「第二センテンス」のようなものを書かない勇気を持つことは、日増しに難しくなっている空気を感じるのも事実だ。

 年に数回旅行をするようになって、何度か紀行文的な文章に挑戦しているが、上手く書けたと思えたことがない。身辺雑記の域をどうしても出ないのだ。その点、panpanya「そぞろ各地探訪 panpanya旅行記集成」(1月と7月)は、自分の旅行をこんな風に描けるのかと感心した。たとえ観光地でなくとも、アイスクリームや、都内の低い山と、テーマの定め方が面白い。その中で落ちているものを拾ってみたり、なんでもない標識や看板を収集してみたり、自分の町の歩き方というものを振り返ってみたくなる。

 本書は、雑誌「1月と7月」での連載と、過去の個人誌を無理やり一つにまとめたような作りになっている。それは著者が、旅行でもらったパンフレットや半券、箸袋や買い物をしたときのレシートを本のような形に綴じて一点ものの「旅の本」を作っているところから出てきた製本だ。私もチケットの半券や旅先で発生したものをなかなか捨てられない質だが、一度それらを並べてみて、自分の「旅」がどのように立ち上がるのか、試してみたい。無骨で無機質な情報の間を繫いでいくこと。それはさながらもう一度旅を、それも一度目とはどこか違う新たな旅をするようなものになるのだろう。

 panpanyaの作品には、ときに風刺が入ることがある。だが、それはあくまでも物語が主となっていて、なんとなく感じさせるようなものになっている。決して風刺のための物語にはなっていない。

 風刺は難しい。おもしろくなければいけないからだ。ただでさえ人を笑わせることは難しいのに、その上で現実の社会を戯画的に皮肉らなければならない。社会問題をテーマにした作品は巷に溢れているが、その多くが妙に真面目腐っていて、それこそ上記の「第二センテンス」的なものを匂わせるものになっている。笑えない風刺は、ただの勧善懲悪のお説教である。

 久米田康治『シブヤニアファミリー』(小学館、既刊4冊)は、渋谷育ちの小学生の視点から社会を見ている。「青い空 白い雲 キレイな水 キレイな空気」はなく、風俗求人のラッピングカーが行き交う街。そんな渋谷の学校に通う小学3年生の都加逸子は、自分たちを見て、こんな渋谷の真ん中にある学校に通う子供はかわいそうだと口にするのを聞く。まあありがちな感想だ。それに対し逸子はこう言う。「どこで育とうがそこが私たちにとって当たり前の世界だ」。

 版元のセールスポイントとしては、そんな逸子が世の中を切ることを推しているようで、もちろんそういう面はある。しかし一方で、逸子は逸子で非常に強い偏見を持っている人物でもある。それは逸子のみならず、個性的な登場人物たちに共通している。人の心の機微や「正しい」価値観を持った者(主にマイノリティ)が旧弊的価値観を内面化した大人達を叩くといった勧善懲悪にはならず、大抵はしょうもないことについて、コメディチックに描かれる偏見と偏見がぶつかる様がおもしろい。

 思えば、渋谷という街もまた偏見に満ちている。抽象的なイメージとしての渋谷が乱雑に積み重なり、それが語られることによって実態とは少し離れた渋谷が共同幻想のように立ち現れる。

 多くの物語において、傾向として渋谷に代表されるような東京・都心は、「旧弊に満ちた田舎」と並んで切られる存在である。そこには確かに真実もあるのだろう。しかし、いわゆる田舎的な親戚や実家を持たない私が、本当に田舎には旧弊が満ちているのか知らないように、いったいどれだけの人が、都会の実態を身体的に熟知しているのだろうか。語られた東京を以て東京を語る。そんな何重にも色眼鏡をかけた先にぼんやりと見える東京を俎上において、私たちは議論をしているのではないか。その実、現実の東京、そして渋谷は忘れ去られている。

 本作がたとえば主人公が地方から転校してきた子どもだったり、架空の地名を立てたりしていたら、世に数多ある作品と変わらず、あまりおもしろくはなかっただろう。結局は幻想の渋谷を舞台にしているに過ぎないからだ。

 風刺についても、妙に対象の存在を濁し、固有名を曖昧にするものも多い中、本作はかなり直球だ。しかし風刺とは、全方位に喧嘩を売るくらいの胆力が求められるものだ。利口な者に、本当の風刺はできないのかもしれない。

 とはいえさすがに、「日本3大宣言=関白宣言・緊急事態宣言・ゴーマニズム宣言」(45話)は切れ味が強すぎる。思わず吹き出してしまった。良く言った!と拍手喝采して溜飲を下げるのではない。そう来たか、と死角を突かれたときの爽快さがここにはある。

 このようなユーモアが、この世の中にもう少し欲しいものだ。皆、ちょっと真面目すぎる。真面目すぎると余裕、ゆとりがなくなる。それは強固な偏見と隣り合わせで、しかもそれに気付くために必要な視野を狭めてしまう。正義に固執する者が、その頑迷さゆえにやがて自分たちが悪と見なす者たちと同じロジックに陥っていく様を、私たちは毎日のように見せられている。何事も按配が大事だ。

 本作を読んでいてところどころで声をあげて笑いながら、そうか、自分が本を読むときに求めていることのひとつはこのような一節との出会いなのだ、と気付いた。知識も大事だが、それ以上にユーモアが、目に見える世界を豊かにする。私は未知の世界よりも、今目の前にある当たり前の生活のなかに、それまでの色を塗りつぶさない、彩りを加える新たな色を見たいのだ。その一節が、いつ自分の琴線に触れるかは分からない。だから本という物として残る形が、とてもしっくりくるのだろう。

 しかしながら、本は社会と無関係ではいられない。余裕やゆとりがない文章、作品がどんどん増えてきているなかで、果たしてこれから、自分はそのような本と新刊書店で出会えるのだろうか。正直、古典を読んでいた方がいいのではないかと思うことが増えているが、それでも時々は書店に通う。10回に1回くらいはどこか小さな希望が得られたらいいな、とのささやかな願いを、正月にできなかった初詣での願い事代わりに、ここに結んでおく。

(矢馬)