ソガイ

批評と創作を行う永久機関

余白と小ささ

『ユリイカ』2026年3月号は「特集=眠い」、副題は「なぜこんなにも眠いのか」であるらしい。文芸誌をはじめとした特集主義的な雑誌の組み方については思うところがあるが、ここまでくると、もう無理して特集を立てなくてもいいのではないか、と言いたくなる。昨今の『ユリイカ』のラインナップを見るに、ネタには相当困っているのではないだろうか。特集を立てることが目的になり、ひとつのタイトルたる雑誌としての根幹、精神がどんどん見えなくなっているように思う。

 そんななか、『東京人』は特集の立て方が好きな雑誌のひとつだ。「東京での暮らしをより豊かにするため、都市・文化・風俗・建築・文学・交通・地形・街並みなどあらゆるジャンルをテーマに、江戸東京の歴史とともに東京の魅力を模索する総合誌」(公式サイトより)という確固たるコンセプトがある故に、硬軟、領域が様々でありながらも、軸はぶれない特集作りがなされていると感じる。私はあまり雑誌を購読する習慣を持たないが『東京人』はちょっと気になる存在で、書店で雑誌の棚を通るときには目でその表紙を探していることもしばしばだ。

 そんな『東京人』の2026年2月号の特集は「まちの隙間、暮らしの余白」だ。なんか面白そう。目次を開いて、少々気になる記事もいくつかあったので、元から買う予定だった本と併せてとりあえず買っておくことにした。本もそうだが、定期刊行物たる雑誌はなおのこと、気になったときに買っておかないと、書店から返品された途端に入手が面倒になってしまうものなのだ(『東京人』はバックナンバーを置いている書店もあるので、まだマシな方ではあるが)。

 しばらく積んでいた本号を紐解いたのは、趣味の御朱印集めを兼ねて荻窪に行って、善福寺公園に寄ったあとに井草八幡宮の近くの小さな喫茶店で休んでいたときのことだ。チーズケーキを食べながら適当にぱらぱら捲っていると、「意外性の散歩術」(林雄司)というおもしろそうな記事に目が留まった。

 リードにはこうある。「全国に広がる均一化された都市空間。利便性や経済性を重視した結果、そこは見慣れた平板な景色だけがひたすら続く。しかし、そんな没個性の中にも意外性を探し、隙間を見つけ出し楽しむことはできる。自由な発想による『街の歩き方』を紹介する」。

 私が主に東京のさまざまな場所を歩き回るようになったのはここ数年のことだ。私は外を歩いていると結構きょろきょろしているようで、変なものを見つけることがしばしばある。それも、いかにも見られること・撮られることを意識しているようなものより、なんでもないけど妙に違和感があるもの、あるいは、なんでこんな意味のないことを? と不思議に感じるものに惹かれる。花壇に綺麗に植えられた花も良いが、それ以上に、アスファルトやブロック塀の隙間から生えた草木が気になってしまう(こういったものについては、同じく村田あやこ「はみだす緑」で語られている)。

一駅手前で降りて見る、ポールに挿さったこの花が好きだったのだが、残念ながらこの場所は数年前に駐輪場になってしまった。

 少し話を戻すと、私は先に引用したリードの「全国に広がる均一化された都市空間。利便性や経済性を重視した結果、そこは見慣れた平板な景色だけがひたすら続く」という部分には、若干の異論がある。いや、間違っているとは思わない。言いたいことも理解できる。だが、東京とはいえ下町に生まれ育った私の感覚からすれば、そこで語られている都市空間とは東京でいえば中央の方、あるいは新しく開発された地区のことを指しているように感じられる。少なくとも私の住んでいる地域は、近年はかなり再開発が進んでいるとはいえ、経済性はともかく、利便性があるようにはあまり思えないのだ。まさに、隙間、余白とでも表現しうるような空間が生む風景が散らばっている。そしてそれは、徹底的に管理されているように思われている都市部でも、本当は変わらないのではないだろうか。

 街を歩いていれば、意外なものに出会う機会はたくさんあるはずだ。でも、気付いていない。人は結構、固有名詞とそのイメージにとらわれて生きているのかもしれない。いったん固有名詞を取っ払い、ただ一般名詞の「街/町」として、いま自分がいる場所に遊んでみる。ここで「遊ぶ」という語を使ってみたのは、最近周りの人を見ていて、みんななんだか真面目に歩いているなあ、とよく感じるからだ。

「意外性の散歩術」では、そんな意外なものに出会う確率を上げるものとして、「上、そして下を見る。」「ゆっくり歩こう。」などの実践的な方法を紹介している。言われてみれば、自分は無意識のうちにこのようなことをしながら外を歩いていたな、と気付かされた。「いったん通り過ぎてから、『あれ? 何か変なこと書いてなかったか』と思ったら躊躇なく戻って観察して写真を撮っているし、反対側の歩道に気になるものがあれば渡って見に行く」など、まさにいつもやっていることで、コーヒーを飲みながら笑いを禁じ得なかった。ああ、僕以外にもそういうことやっている人いるんだ、とちょっと嬉しかった。

下を向いて見つけたもの(確か新橋駅前。よく見るとブロックとブロックの隙間に爪楊枝がぴっちりと挟まっている。皆に踏まれて、押し込まれたのだろうか)

少し上を向けばこんなものも(千住大橋脇、足立市場のあたり。奥のテレビアンテナに留まるカラスが、図らずも一緒に収まっている)

 もっとも、雑誌とは良くも悪くも読み捨ての媒体であり、それこそ暇つぶし、余白を埋めるときに読むようなものであるから、そのすべてをしっかり読むわけではない。今回で言えば、谷川嘉浩の「梶井基次郎『檸檬』と心の余白。」がそのひとつだった。昨年、時事問題を追うこと、それを議論することの不毛さを痛感した私は、ある作品を現代に引きつけて解釈することを自分に禁じている。その点で、この記事はまさに、「檸檬」の主人公を「時間的な余白を嫌悪している」と分析してそれをスマホ時代の現代人に引きつけ、迷惑系YouTuberの議論も絡め、自著『スマホ時代の哲学』の宣伝も挟んで論じる手法故に、いまの私には食指が動かなかった。議論にある程度の妥当性はあり、決して牽強付会だとは思わなかったが、「檸檬」の解釈として見たとき、私としてはそこまで面白いものとは思わなかった。

 だが、本記事についてはひとつ、驚いたことがある。それは「檸檬」などからの引用箇所について、「引用は青空文庫に基づく」との註釈があることだ。

 青空文庫とは、主に著作権が消滅した作品について誰でもアクセスできるように電子書籍化し、公開しているサイトだ。この活動はボランティアによって運営されている。この活動は重要なものだと思うし、私もしばしば利用・活用している。

 とはいえ、文字起こしや校正を行っているのはボランティアである。底本との異同がないとは言い切れない。出典としてはあまり適切ではないのではないか。大学のレポートにおいてWikipediaを根拠にしてはいけない、というのは常識だ(と思いたい)が、青空文庫も同様であろう。

 Wikipediaは情報のあたりをつける意味では上手く使えばなかなか有用なサイトだが、同様に、青空文庫の作品には底本と初出が明記されている。であれば、それを図書館で借りるなどして当たればよい。あるいは、記事内にも書影を掲載している、現在最も手に入りやすい角川文庫版『檸檬』から引いても良い。文学研究では初版や全集に当たるが、媒体、記事の性格上そこまでは求めずともよいだろう。いや、むしろ角川文庫の方がベターかもしれない。

「檸檬」なんて非常に短い作品なのだから、本が手に入れば該当箇所を探すのはそんなに大変なことではない(それこそ青空文庫を使えば、だいたいこの辺にあるだろう、と見当はつけられる)。素人のブログならいざ知らず、大学に属する哲学者がちゃんとした出版物に載せる文章なのだから、それくらいの手順は踏んでも良いように思う。私には、確実な出典元に当たるための、あるいはそれを入力する手間を惜しんだように思えて仕方ない(青空文庫ならコピーアンドペーストができる)。しかし、こういうことは案外のちのちの信頼にかかわってくるものだ、というのが私の感覚なのだが、どうだろう。

 これが著者の判断なのか、編集側の対応なのかは分からない。私が知らないだけで、業界的には、ケースバイケースで青空文庫から引用することも一般的に認められているのかもしれない。であれば私の不明ということになるが、もしそうだったとしても……と、どうにも釈然としないものを覚えた。

 文・堀江敏幸、写真・鈴木理策「曇天記」を読んで、著者について、私はやはり短い散文の方が好きだな、と思った。先日、友人とセレクト系の雑貨・文具店に行ったのだが、小さいとは良いものだ。作品も本も、小ささを志向していきたい。

 考えてみれば、雑誌とは小さいものの集合体だ。しかも、それが乱雑に散っているのではなく、一つの空間に並べられて、綴じられている。そのことが持つ意味を、今一度考えてみるべきなのかもしれない。

(矢馬)