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批評と創作を行う永久機関

死者とともに生きる—「100分de名著」大江健三郎『燃えあがる緑の木』を観ながら思ったこと

 初めて、ちゃんと腰を据えて「100分de名著」を観ている。2019年9月は大江健三郎の『燃えあがる緑の木』を取りあげている。大江健三郎は、実のところすこし苦手で、『死者の奢り・飼育』といった短篇はまだしも、『万延元年のフットボール』や『懐かしい年への手紙』といった長篇は、かなり頑張って読んだ記憶がある。だから、それよりも長いであろう『燃えあがる緑の木』は未読だ。しかし、それであっても、この番組は非常におもしろく観ている。ゲストの小野正嗣さんはもちろん、MCの安部みちこさんと伊集院光さんがゲストに出す絶妙なパスが、本作品が未読である視聴者も置いていかず、きちんと引っ張ってくれる。

 さて、すこし苦手だといった手前、その言葉に矛盾するようにも思えるかもしれないが、いま、大江健三郎の作品に興味がある。その理由はいくつかあるのだが、それはこの番組の第2回放送でも、きっちり言ってくれていた。「死者とともに生きる」こと。大江の作品、引用の多いその書き方の根っこにあるのはこの意識だと思うのだ。そして、こと文学においていま私を摑んで離さない意識が、この「死者とともに生きる」ことなのだ。

 

 フィリップ・フォレストという作家がいる。彼については堀江敏幸「時間の森への切り込み」(『アイロンと朝の詩人』所収)などが良い導き手となるだろう。フォレストは元々、フィリップ・ソルレスで博士論文を書いていて、前衛文学や前衛芸術を対象とした批評活動をしていた。しかし、幼いひとり娘が癌を発症、4歳でこの世を去る、そのことが彼を大きく変えた。やがて、彼の関心のひとつは日本の「私小説」となる。とりわけ彼にとって大きな意味を持つ作家が、大江健三郎なのだ。

 大江健三郎の、とりわけ長男・光さんの誕生後の作品の特徴は、現実の大江健三郎や光さんなどを思わせる人物が登場する私小説的書き方、そして、古今東西の書物の引用、果てには過去の自分の作品、あるいは草稿までをも取り込む自己引用にあるだろう。ダンテの『神曲』が繰り返し言及される『懐かしい年への手紙』の下敷きには『万延元年のフットボール』があるし、作中では『個人的な体験』の書き換えすら行われている。そして『燃えあがる緑の木』は、その『懐かしい年への手紙』と地続きの作品だ。この『燃えあがる緑の木』の幹をなす作家があるとすれば、それはイェーツであり、ドストエフスキーである。

 大江健三郎作品には、他者の声が満ち満ちている。引用とは他者の声を受け入れることである、と番組で小野さんが語っていたが、まさにその通りだ。そして『燃えあがる緑の木』のモチーフであるイェーツの詩に描かれる「炎と水の共存」、語り手・サッチャンの両性具有という身体的特徴。『燃えあがる緑の木』では、矛盾するものが共存する空間が志向されている。これは引用についても言え、つまり、自分の言葉と他者の言葉がまさに自他の区別なく、「作品」という場で共存している。それはさらに、生者と死者にも広がる。ホールの完成の式で、ギー兄さんがおこなった説教は、いま自分たちが吸っている空気は森の空気であること、つまり、呼吸という行為を象徴として、ひとは死者とともに生きているという意識を説いている。私たちは、昔誰かが吸って吐いた空気を、いま吸っている。私たちの命には、他者の魂が宿っている。

 不勉強にも、私は『カラマーゾフの兄弟』の主要人物・アリョーシャの名が、ドストエフスキーが幼くして亡くした次男の名前であることを、この番組で初めて知った。息子の死のあとに書かれたということを思うと、この作品に対する見方も変わってくる。ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』を書くことによって、息子を生まれかわらせようとしたのだろうか。すると、大江がドストエフスキーに惹かれている理由も、なんとなく分かってくるような気がする。

 話がだいぶ逸れたが、フォレストに話を戻す。フォレストの「小説」作品のひとつに『シュレーディンガーの猫を追って』という作品がある。かの有名な「シュレーディンガーの猫」という量子力学における思考実験は、ざっくり言ってしまえば、観察されることによって固定される、とする量子力学の考え方を用いると、箱の中の猫が「生きている」状態と「死んでいる」状態が重ね合わせで発生してしまう、というあり得ないことが起きるとの批判だ。しかし、ひとびとを魅了するのは、むしろこのあり得ない重ね合わせの状態なのだ。量子力学については門外漢であるフォレストにとっても同様。彼は「シュレーディンガーの猫」、そして家にやってくる猫への随想を巡らし、そして語るなかで、亡くした娘が生きているもうひとつの世界に思いを馳せる。語ることによって、死者とともに生きる。フォレストはこの語り方を、まさに大江健三郎の作品から取り込んだのではないだろうか。

 伊集院さんが、「そのひとにとっての大事な言葉を集めると、それが自ずと福音書となるのかもしれない」といった旨のことを話し、小野さんを唸らせていた。『燃えあがる緑の木』のひとつのテーマは、神なき人々の信仰であるようだ。しかし、その答えはここにあるだろう。自分を作る、先人の言葉。その普遍的解釈ではなく、それを自分がどのように読んだのか、自分にはこうとしか読めない、と「言い張る」(この「言い張る」という言葉も、この番組でのキーワードとなっている)言葉が、その人その人にとっての「福音書」となるのだろう。 作品を作る度に新たな「福音書」を書き上げてきた大江健三郎。引用に満ちた彼の作品は過去への案内者であるのと同時に、読者にも各々の福音書を作ることを促す、未来への導き手でもあるのかもしれない。

 

(宵野)

中村光夫の可能性—『虚実』あとがきから

 中村光夫といえば、『風俗小説論』における私小説批判が有名だろう。もちろん、彼の仕事はこれだけではないのだが、とはいえ、もはや『風俗小説論』こそが彼の代名詞のようになってしまっている。そんな風潮を責めているわけではない。事実、私にとってもだいたいそんな認識だ。

 先日、この著作を読み直す機会を得た。初読は学部2、3年生の頃だったと思うが、まあ当時よりは内容を飲み込めるようになった。やっぱり優れた批評眼の持ち主なんだなと思うと同時に、ちょっと納得できない箇所も、まま目についた。私小説、というよりは、正統である西洋文化の正しい摂取に失敗した日本文化を討つ、という意識が先走っていやしないか。それ故に、日本的とされる私小説を、あまりにも類型的なものとして見てはいないだろうか。特にここは、ちょっと反対したくなる。

 作者がみずから作中人物と化して踊ることで、小説をつくりあげ、併せてそこに作品の真実性の保証を見ることに、花袋から田中英光まで一貫した、我国の私小説の背景をなす思想があると思われます。自分のことを自分で書くくらい間違いのないことはない。事実である以上、嘘があるわけはないという考えです。(『風俗小説論』講談社文芸文庫、2011年11月、44頁)

 はたして中村の言うとおり、私小説作家が「自分のことを自分で書くくらい間違いのないことはない。事実である以上、嘘があるわけはないという考え」で小説を書いていたのだろうか。ただ自分の経験したことを思うままに書けば小説になるのなら、それほど簡単なことはないが――

 事実、そのように素朴に考えていた「私小説」作家もいたのかもしれないが、当然のことながら、本来それだけでは「小説」にはならない。

初めて小説を書いてみようと思い立った時、多くの人はまず自分の体験を一人称の「私」で素朴に綴ることから始めてみることだろう。しかし実際に書き始めてみると予想以上に困難なことに気がつき、多くの場合、途中でペンを放り出してしまうことになる。懸賞小説の応募作に多いのは中高年の人々が自身の体験談を素朴に綴った「自分史」であると聞いたことがあるが、実は「自分史」と「小説」とは似て非なるものなのだ。仕事の困難を克服した体験など、一つ一つは胸を打つ話柄ではあっても、実はそれ自体は「小説」ではなく、ノンフィクション等のジャンルでも充分に対応できるものなのである。それが「小説」になるかどうかはひとえに「描く私」の〝よそおい〟をどのようにつくっていくかにかかっている。(安藤宏『「私」をつくる――近代小説の試み』岩波新書、2015年11月、74頁)

  技術、といってしまえば少し大げさだが、個人的体験をひとつの作品にすることは、それほど容易ではない。「私」を語っていくと、自分がその「私」から離れていく。「私」のことを話していたはずなのに、次第に話がずれていく。「あれ、本当にそんなことってあったっけ?」なんて首を傾げることだってある。

 そんな葛藤のなかで、では「描かれる私」をいかに演出していくか、ということに悩み、試行錯誤を重ねたのが日本近代文学であり、その一要素としての「私小説」なのだ、と私は考えてみたい。その結果として、私小説には事実を基にしているはずなのに幻想的世界に到達してしまった作家、作品が見られる。極端な例としては、たとえば藤枝静男が挙げられるだろう。

 いや、そもそも「私小説」を独自のジャンルと見なすことにも、もしかしたら問題があるのかもしれない。第一、その書き手にまったく無関係に生まれる文章作品というものが、果たして存在するのだろうか。物語の舞台が空想世界だったからとして、それが現実世界に、そして作者の生活と無縁ということはあり得るのだろうか。ある登場人物のひとことに、その作者の「思想」がにじみ出てしまったとき、その台詞と現実の作者を結ぶ紐帯が生じているのではないか。

 これは私がしばしば好んで引用するのだが(この引用という行為にも、やはり引用者の私性が出ていると考えることもできる)、夏目漱石「創作家の態度」からの一節は、やはり念頭に置いておきたい。

誰の作は自然派だとか、誰の作は浪漫派だとか、さう一概に云へたものではないでせう。それよりも誰のこゝの所はこんな意味の浪漫的趣味で、こゝの所は、こんな意味の自然派趣味だと、作物を解剖して一々指摘するのみならず、其指摘した場所の趣味迄も、單に浪漫、自然の二字を以て單簡に律し去らないで、どの位の異分子が、どの位の割合で交つたものかを説明する様にしたら今日の弊が救はれるかも知れないと思ひます。(「創作家の態度」)

  つまり「私小説」を、小説の一要素として考えてみる。極端な話、すべての小説に私小説的要素は潜んでいる、と考えてみることで、つい内容面ばかりに押し込められて評価されがちな私小説の可能性を広げられないだろうか。まだなんの理論的根拠も持たない、ほとんど野望に過ぎないようなものではあるけれど、少なくとも私には、なかなか魅力的な仮定である。

 

 ところで、冒頭では少し批判的に論じてしまった中村光夫だが、彼には、私小説の可能性と同様、実はもっと豊穣な可能性があるのに「私小説批判者」というレッテルで覆い隠されてしまっている一面があるのではないか、と先日、いたく感じた出来事があった。

 まず、藤枝静男の書評のなかに、中村光夫の短編集を採りあげたものがあった。藤枝は、批評家としての中村には少し不満も持っていたけれど、この小説作品を読んで、好ましく感じた、とかなり好意的な評価をしている。とくに、中村光夫に特徴的なですます調で、しかもフランス文学者、作家である語り手を立てた、私小説的な形式の二作品「小さなキャベツ」と「サン・グラス」が良い、と。

 その短編集のタイトルが、その名も『虚実』。これはある一編を題名を持ってきたのではなく、総題としてつけられたものだ。この本が出版されたのが1970年。『風俗小説論』が1950年だから、そこから20年もあとの仕事になる。

 私には中村光夫に小説のイメージはなかった。しかし、せっかくだから図書館で借りて、上記の二編だけ読んでみた。まったくつまらなくはないが、正直、そこまでおもしろいとは思わなかった。ただ、中村光夫がこれを書いていたのか、と考えると、なんだか不思議な魅力があることは確かだ。

 しかし、この本で私がもっとも感銘を受けたのは、その「あとがき」の後半部分だ。 

 短編小説は近頃あまり重んじられない文学形式ですが、これを書いたことは僕にはよい勉強になりました。限られた長さのなかにできるだけ内容を盛りこむにはという初歩の工夫から、経験と仮構をどこでつなぐか、自分をどう露わし、どう隠すべきかという点まで、やって見て解ったことがいろいろあります。

 事物を言葉で表現するのは、何らかの形で嘘をつくのを強いられることだが、嘘が嘘としての機能を果すためには、本当に見えなければならない、という当り前のことが、いくぶん実地図に即して呑みこめました。

 総題を「虚実」とつけたのは、そういう気持からです。ここにあることは全部嘘と云えば嘘ですが、だからまた本当かも知れないのです。(『虚実』新潮社、1970年5月、179頁)

  至言だ、と思った。

「経験と仮構をどこでつなぐか、自分をどう露わし、どう隠すべきか」。ある意味ここは私小説の肝であるし、「事物を言葉で表現するのは、何らかの形で嘘をつくのを強いられることだが、嘘が嘘としての機能を果すためには、本当に見えなければならない」とは、そもそもなにかを言葉で表す時点で、まるっきり事実ではありえないという、私小説がもつ決定的な矛盾であり、かつ魅力でもある。

 いや、それ以前に、実はこの実直で誠実な短いあとがきには私小説に限らず、小説を書くときにだれしも悩み、そして常に抱えるべき大命題が詰まっているのではないか。

 中村光夫は、実際に小説を書いてみることで、もしかしたら批評だけでは得られなかったなにかを感じ取ることができたのかもしれない。たぶんそれは、彼の可能性を広げたはずだ。

 

 繰り返すと、『風俗小説論』は1950年、『虚実』は1970年に刊行された。彼は1988年7月12日(単なる偶然だが、このブログに最初の記事をあげた日も7月12日である)に亡くなるが、その2年前の1986年にも著書を出版しているから、生涯現役と言っても差し支えはないだろう。

 1935年にデビューしてから、50年以上にわたって仕事を残した。すると、実は『風俗小説論』は彼の仕事のなかでも前半期のものであって、さらに『虚実』から見て16年間の仕事が、彼にはあったということになる。

『虚実』のあとがきであのように書いた彼の「私小説」への目は、『風俗小説論』を著したときとは少し違ったものになっていたのではないだろうか。これも単なる思いつきに過ぎない仮定ではある。けれども、『風俗小説論』以降の仕事も追っていくことで、もしかしたら、強烈な「私小説批判者」とは異なる中村光夫像が、そこに立ち上がってくるのかもしれない。

 それこそ、彼の著作に潜む私小説的要素を、感じ取っていくことによって。

 

(文責 宵野)

散歩の視線—小山清「犬の生活」

 ひとは、どこを見て過ごしているのだろうか。

 数年前、とは言っても、もう零よりは十に近い年数が経っているが、精神に不調をきたして外に出られなくなったときのリハビリとしてはじめた散歩が癖になって、意味もなく一駅とか二駅とか、それくらいの距離を歩くことがある。そんなとき、たとえばそれは、赤信号を、足元の鳩を、道脇に生い茂る紫陽花を、保育園のお散歩を、そして空と流れる雲を眺めているとき、前触れもなく目の前が滲み、涙が流れそうになるようになったのは、いったいいつからだったのだろう。

 昼も夜も関係ない。つらいことを思い出したからでもない。ただ、どうしようもなく悲しく——いや、悲しくすらないのかもしれない。涙が潤むときの自分の感情を、少なくともいま持ち合わせている語彙では示すことができない。なにせ、思い当たる出来事がない。そのタイミング、そのときの風景に、共通点らしきものも見つけられない。

 一年前、自分の書いた短い創作の文章を合評する場で、なんだか、すごくひとを見ているように感じました、と感想をもらった。そんな意見をもらったのは、小説のことに関係なく初めてで、なにより、意外だった。ひとを見る。自分は、そこから遠い場所にいる人間だと思っていた。交友関係は広くないし、人間というものに対して、特別な興味はそれほど持ち合わせていない。ひとの顔を憶えるのも苦手。自分は人間というものにあまり興味を持てていないのではないか。そんな風に感じていた。

 しかし、そう言われてみると、気にもなってくる。

 以来、ふとした瞬間に、いま自分がなにをどのように見ているのか、ということを考えるようになった。すると自然、ひとの顔を見ているときもあって、そんなときには自分の視線ばかりではなく、その相手の視線もまた、気になるようになった。

 そんな風にしていて、気づいたことがある。自分は、外を歩いているとき、上下左右に、ふらふらと視線を揺らしがちだということ。そして、ひとは必ずしもそうではない、ということ。とにかく前を向いているひと、終始うつむきがちなひと、ずっと手元の画面を見つめているひと、そんなひとが多い。少なくとも、一瞬でも上を見ているようなひとは、あまり見かけない。また、下を見ているからといって、足元を歩く鳩の行く道筋は見ておらず、衝突寸前までいって鳩の方が慌てて避ける。

 いま私が気になるのは、大人よりも子ども、それも、ベビーカーに乗っていたり、大人に抱っこされていたり、いつつまずいて顔を地面にぶつけないか不安になる、ぎこちなく歩いている子どもの視線だ。信号待ちをしているとき、横のベビーカーに乗った子どもが、ひねるようにして身を乗り出し、上を見た。真ん丸の瞳が一心に見つめていた。つられるようにして、顎をあげた。けれども、その先では蝶が飛んでいるのもなく、ビニール袋が舞っているのでも、飛行機が横切っているのでもなく、ただ、いつもの空があるだけだった。子どもは、同じ体勢のままだった。ベビーカーを押すお母さんが子どもが顔を出していることに気づき、からだを傾けて、子どもの頬に手を伸ばす。子どもは、口をぽかんと開けて、お母さんを見上げた。

「落っこちるとあぶないから、前を見ててね」

 鞄からデフォルメされたゾウのフェルトのガラガラを渡すと、両手でつかんで、耳のところをあむっとくわえた。

 あの大きさの赤ちゃんだと、視力はまだ〇・一くらいしかないはずだ。私は小学校高学年から徐々に視力が落ち、いまは、裸眼では〇・〇いくつか、といったところ。まれに、眼鏡を外して外の景色を見ることがある。輪郭らしい輪郭はなくなる。夜などは、三十メートルくらい先の信号や街灯の灯りが分裂して円状に広がり、ひとり花火大会といった様相を呈す。そんなぼやけた視界で、あの子はいったい、その先になにを見ていたのだろう。

 子どもの視線について、ひとつだけ仮説を立てている。それは、子どもたちは歩いていない、より正確に言えば、移動だけを目的とした歩行をしていないがゆえに、視線がさまようのではないか、というものだ。

 これは、自分に引きつけても同じことが言えそうだ。あ、自分、いまなにかを見ているな、と感じるとき、それは目線よりずっと上かずっと下か、あるいは脇だったりする。多分それは、歩行を、移動だけを目的とした行為とするならば、そこから逸脱する視線の方向だ。逆に、急いでいて、とにかく先に先に、と足を動かしているときには、前方以外に気をとめている余裕がない。

 リハビリとして始まった趣味としての散歩では、いろいろなものに目がとまる。同じ場所を、それまでも何回も通っているはずなのに、気づかないでいたものに興味が惹かれる。散歩は、明確な目的や目的地をもたない。散歩も、たしかに移動は伴う。けれども、移動が目的ではなく、外に出ること、それ自体が目的であって、すると散歩は、外の世界との接触、出会い、邂逅を期待しているのかもしれない。私の場合、外出への不安を克服するための行動療法(暴露療法、エクスポージャー法と呼ばれるもの)としておこなっていた行為であった。だけど、それはただ外に出る、というだけではなく、外の世界とひとつひとつ出会い直すことで、自分の不安に、内向きに内向きに入りがちな視線を発散させる、ある意味では薬を使わないところでの対症療法だったのかもしれない。

 だとしたところで、それと涙には、いったいなんの関係があるというのだろうか。棒との問いに戻ってくる。これではぐるっと回って、結局もとの場所に戻ってきた、それこそ散歩のような思索に過ぎない。そして、答えはまだ見つからない。

 そんなとき、私は散歩をするのと同時に、本を読む。語り手が語る描写を通して、語り手の視線を借りる。

 

 最近読んだなかでおもしろかったのは、小山清「犬の生活」だった。

 小山清は、とりあえず分類するなら私小説作家になるだろうか。太宰治に師事したらしいが、おそらく世間がイメージする「人間失格」的な太宰とは、また別の性格を受け継いでいるような気がする。私は、「人間失格」的な太宰は正直あまり好まず、「富嶽百景」にあるような描写にこそ惹かれるのだが、「富嶽百景」に登場する、彼が師として仰いだ井伏鱒二に、むしろ小山清は近いのではないか、つまりこれは隔世遺伝のようなものではないか、などと取り留めのないことを感じていたわけであるが、それは措く。

「犬の生活」は、三年ほどまえに武蔵野に移り住んだ独り身の作家「私」の一人称小説だ。「私はその犬を飼うことにした。」という書き出しで始まるこの作品は、一言で言ってしまえば、公園で出会った捨て犬を拾って、生活にちょっとした張りと瑞々しさが出る、という心温まる作品だ。とにかくこの「私」の、「メリー」と名付けたメスの犬への溺愛っぷりが可笑しく、そして愛おしい。 

 私は犬をメリーという名で呼ぶことにした、メリーはお婆さんの云うように、たいした犬ではない。ありふれた雑種である。白と黒の斑で、白地に、雲の形をしたようなのや、鳥の形をしたような模様がついているのである。人間ならば、中肉中背とでも云うところだろうか。(…)躰つきは様子のいい方ではないが、さりとて不恰好というわけでもない。器量だってまんざらでもない。美人ではないが、よく見ると、可愛い顔をしている。なによりも、高慢らしい感じがしないのがいい。眼がいいのだ。メリーの眼は、ほんとにいい。眼は心の窓というが、メリーの眼を覗くと、メリーが善良な庶民の心を持っている犬だということが、よくわかる。(209頁)

 とにかくメリーについては一貫してべた褒めで、親バカであると同時に、嫁バカでもある。拾ったときから身籠っていたメリーの出産で閉じるこの作品は、独り身の男が、メリーを機にして親密になった大家のお婆さんも交えながら、擬似的な家族・家庭の生活を送っていくような話なのだ。

 犬と言えば、散歩のイメージがついて回る。「犬の生活」でも、散歩をする場面がある。ここの描写は、目的地を持たない、視線が遊歩する散歩というものを、よく表している一例かもしれない。

 メリーは私と連れ立って散歩するのが好きらしい。鼻づらで地面をかぐようにしながら、嬉々としてゆく。池畔をめぐりながらメリーは、藻の匂いに鼻をくんくんいわせたり、鳰の鳴声に肝を消したような顔つきをする。池をひとめぐりすると、私は公園の西の端れのいぬしでの木立のある丘にゆき、そこにあるベンチに腰かけて休み、メリーの首輪から鎖をはずしてやる。そして私の姿が見える範囲内でメリーをひとり勝手に遊ばせてやる。(223頁) 

 このとき「私」は、メリーの眼を通して、彼もまた散歩をしている。彼がメリーの眼をあれだけ褒めているのも、メリーというもうひとつの眼によって、彼の世界が文字通り広がることになるから、なのだろう。

 

 ところで、このような描写を読んでいても、私はときどき、胸がぽうっと温まり、その熱が、上へと伝って、涙のようなものとして、目から流れそうになる、そんな瞬間がある。やはりそれは、悲しいからではないし、嬉しいからでもない。

 ひとは、悲しいときだけに涙を流すものではない。感動しても流すし、笑い転げながら流すこともある。眠いときに流す涙もあれば、激情のあまりほとばしる涙もあるだろう。

 つまり、なにかがひとりの人間のからだには収まらなくなってあふれ出すとき、それが涙という形を取って、表出するのではないだろうか。だとすると、散歩をしているときに、私のなかにはなにかが溢れんばかりに満ちている、ということか。だとすれば、なんだろう。

 結局答えは出ないので、いまひとつ思いついた仮定を挙げて、この文章をしめよう。

 私はさっき、散歩によって世界と出会い直し、内向きの視線を外に発散させる、といったようなことを言ったような気がする。ただ、より厳密。。といいながら余計に抽象的なのだが、このとき私の視線は循環しているような気がするのだ。世界を介して、再び私の内を見る。そしてまた世界に出会い、また弧を描くようにして私を見る。輪郭を残しながら、それでも溶け込ませるような、そんな感じ。

 きっといつだったか、同じ景色を見たひとがここにはいた。そのとき、私はすでにここにいない者とも、交わる。目線の高さは違うけど、いま空を飛んでいる鳥と、地面を歩く野良猫と、空間を分かち合う。種族の垣根も、当然越える。私は、その一部になる。

 ああ、そうか。世界の広さに動かされ、その感情があふれ出ているのかもしれない。

 

 なんとも尻切れトンボだが、ひとまずこんなところで締めよう。私の歩みは、まだ道半ばなのだから。

 

参考文献 小山清『落穂拾い・犬の生活』ちくま文庫、2013年3月

 

(文責 宵野)

迷いながら書く―小川国夫を読みながら感じたこと

 先年、日本近代文学館に初めて行ってきた。「没後十年 小川国夫展―はじめに言葉/光ありき―」を観に行くためだ。私は最近、小川国夫という作家に興味を持ち始めた。そんな折にTwitterをのぞいていたら、まさに渡りに船、こんな展示が催されていることを知ったのだ。

 しかし、この日本近代文学館に行くまでが一苦労だった。

 私は、とにかく地図を読むのが苦手で仕方がない。方向音痴なのだ。特に、右と左が、とっさに言われると分からなくなることが多くて困っている。(私の場合、一度自分の手を見るか思い浮かべるかすると確実に左右を判断できるのだが、パニックになると本当にこれが分からない。)これには「左右盲」という症状があることを最近知った。どうやら私にもそのきらいがありそうだ。そんなこともたたってか、道に迷った挙げ句に、駒場公園と駒場野公園を混同する、というミスを犯し、午後に予定があったために初日は日本近代文学館を見つけるのがやっとで展示を観ることが叶わず、なんと2日連続で駒場東大前駅に行く羽目になった。しかし、それを差し引いても良い経験だった。

 生原稿だとか直筆の絵だとか、豪華な面々の同人誌、さらには、小川国夫による聖書の朗読音声なんてものもあって飽きることがなく、小さいながらも充実した展示だった。そんななかで最も印象に残ったのが、「小川国夫旧蔵の新約聖書」だった。

 小川国夫は二十歳のときにカトリックの洗礼を受けていて、彼自身の作品のなかでも、「聖書もの」と呼ばれるような、聖書について扱った流れのものがある。そうでなくても、とりわけ初期の私小説的な作品では、しばしば聖書を読んでいたり、引用していたりする。小川国夫と聖書は、切っても切り離せないものだろう。

 では、その小川国夫が持っていた聖書とはどんなものであったのか。展示されていたのは、エ・ラゲ訳、中央出版社、1952年3月1日刊行ものである。国立国会図書館の検索では、同作の1947年刊行のものが9刷とのことだから、比較的流通したヴァージョンでありそうだ。

 つまり、テクストとしてはありふれたものである。しかし、その状態が尋常ではない。表紙は剥がれ、ページは背から離れてバラバラ。インクや水の染みで汚れ、破れているところもあれば、くしゃくしゃに折れ曲がっているところもある。もはや原型をとどめていない。本の状態から、これだけ読み手の執拗さというか、執念のようなものを感じたことはなかった。背筋が凍る思いすらした。

 活版印刷は、聖書の普及のために欧州で発展した技術でもある。複製技術によってテクストは、オリジナルを失っていく。つまり、近代の出版の、まさに正統的な産物である普及版の聖書(しかも翻訳)が、しかしここでは一周回ってオリジナルのものとなっている。このボロボロの聖書は、小川国夫のものでしかあり得ない。

 

 いまの時代、いったいオリジナルといったものはどこに存在するのだろうか、と途方に暮れることがある。コピーのコピーの、そのまたコピーの……。匿名性が強いネット世界に顕著ではあるが、情報に溢れる現代、ネットの不確かな情報を切り貼りすれば「作品」が成立してしまうのだから、そもそも新たなオリジナルなんてものは不可能なのではないか、とすら感じる。

 そんなことを考えてしまって、なかなかものを書けなくなっているのがいまの私だろう。いや、開き直ってしまえば自ら「力作」と称すような作品を、意外にもぽんぽん書けてしまうのかもしれないが、そこはどうにも夢想家の側面があるのか、割り切れないでいる。書くことって、そんなもので良いのだろうか。いや、もちろん程度の問題はあるけれども、それはそれで良いのだろうし、そもそもそれが悪い理由も思いあたらない。私は、書くという行為には大きな意味があると信じている人間ではあるが、それをだれかに押しつけようとまでは思わない。けれども、やっぱり……。こんな感じで、まだ私は、迷子になり続けている。

 そんななかで小川国夫の聖書は、ああ、もしかしたら執拗な読書が、オリジナルの欠片をつかむための営みなのかもしれない、と感じさせられた。いま私は小川国夫の遺作『弱い神』を読んでいるところだが、この作品には、暗闇のなかに光を求めていく人物が数多く描かれている印象だ。そんな登場人物たちの苦悩が、私には、小川国夫自身の聖書への、そして人生への向き合い方と重なって見えてくる。まだ最後まで読めていないのではっきりとは言えないが、『弱い神』のテーマは多分「死」であるし、さらに突き詰めれば、「自殺」である。テーマとしては普遍的、あえて言い方を悪くすればありきたり。しかし、それを死者の声に耳を傾けながら、このひとが書くと、こうにもなるのか、と感心する。

 あれだけ聖書を読み込んだひとが、晩年になってようやく到達することができた境地がこれだったのかもしれない、と考えると、それこそ一本の大河ドラマをみてきたような、壮大な気持ちになってくる。

 そして思う。これだけ読み込んだからこそ、小川国夫は聖書を下敷きに、多くの作品を書き残すことができたのだ、と。そして、それだけ読み込んだからこそ、たとえばこれは旧約聖書について、このような言葉も出てくるのだろう。

〈骨王〉は旧約聖書から素材を得ました。この本を読んでいると、多くの作家たちのように、これこそ物語の本だと舌を巻きながらも、なんでこれが聖なる書なんだ、といぶかしく思います。人間はやはり、容赦ない殺し合いのなかから生い立ったんだ、と思うばかりです。ちなみに、聖書はみずからのことを聖書とは言っていません。文書と言っているのみです。この血なまぐさい文書を、だれが聖書とよび始めたのでしょうか。(239頁)

 これは、『あじさしの洲・骨王―小川国夫自薦短篇集』(講談社文芸文庫)のあとがき、「書きたい、見たい、聞きたい」の一節だ。「骨王」は平成3年の発表の作品である。これは、この自薦短篇集の後ろから2番目に収録されている。そして、この次、トリをつとめる作品が、「海からの光」。原題は「葡萄の枝」で、これを加筆修正したもの。発表は昭和33年。掲載誌は「青銅時代」。小川国夫がデビューする前の同人誌である。これについての自作解説。

〈海からの光〉は新約聖書の影響下で書きました。もう四十五年前も前のことです。そのころから私は、イエスはなぜ神なのか、そのわけを言葉で表現できるものなのか、と考えていました。探求は今に続いていますが、行きまどっています。流れをこしらえようとしているのに、氾濫となっています。終止符を打つことはできないかも、しかし続けなければ、と思っています。(239頁)

 「イエスはなぜ神なのか」。『弱い神』というタイトルは、その途方もない問いに対する、彼なりの答えのひとつだったのだろう。文字通り、デビュー前から遺作まで、作家人生の一生を通して、たどり着く。

 そのとき、彼は「氾濫となっていた」ところに、「流れをこしらえ」ることができたのだろうか。小川国夫の作品を考えるとき、「流れ」という言葉は、彼自身のこのような言葉を思い起こさせる。

私は将来書いて行くべき小説の流れを、三筋に分けようと決意した。第一の筋は、聖書の世界を拡大したり変形したりした物語の流れにしよう、第二の筋は、故郷大井川流域を舞台にした架構のドラマの流れに、三番目の筋は、実際の体験、交際、見聞に多少の潤色を加えた私小説風の流れにしようということであった。(『逸民』「後記」より)

 『弱い神』は、この3つにわかれた支流が、再び合流した下流の穏やかな流れのなかで語られた物語であるように感じられる。その水は、やがて海へと放たれる。海が、彼の思い浮かべるであろう天国のイメージと、どこかつながりを持っているようにも思われる。もしかして、と思い、『弱い神』の最終盤をちらとのぞく。「――これも大井川河口の魔力ですかね。」「天国は網を投げて魚を捕らえるようなものだ、漁師は良い魚をビクにいれ、役立たずの魚を海に捨てる、というくだりを批評して、しかしビクに入れられた魚は食用になってしまう、不幸だ。海に戻される魚のほうが幸せだ、と言うのです。」といった文章が目に入ってきた。私の感触は、あながち的外れなものではないのかもしれない。

 

 なにかひとつの本を、執拗に読み込むことができたとき。私はまた、文章を書きはじめられるようになるのだろうか。

 それは、とても幸せな想像だ。しかし、それを目的に読書をするのも違う、とまたもや夢想家みたいなことを言ってみたくなる。こんな歳でなにを、と言われるかもしれない。でも、私はもう、つねになんらかの目的があることを前提に行動を求められることに、疲れてしまったのだ。結局、いまの私など、偶然の結果の集合体に過ぎないのだ。しかし、そのことに希望も持っている。自分が偶然の結果の集合体に過ぎないのならば、自分の行く先も、予測なんてできない。私の場合はそれがすぐに自分の書くものに直結してしまうわけなのだが、いつか、いまの自分が思いもよらないようなものを書く可能性がある。そんなことを思うと、なんだかこれからの人生も楽しめそうな気がする。

 

 つまるところ、私はこれからも迷子を続けながら、生きていく。右と左を間違えることでこそ初めて見えてくる景色というものも、きっとあるだろうから。

 

(文責 宵野)

もはや私小説―秋山駿『人生の検証』

 この本が、Kindleで432円で読めるということに、驚きをおぼえずにはいられなかった。良い時代になったものだ、とこんなところで感じることになるとは、思いもよらなかった。

 秋山駿『人生の検証』(新潮社)は、ちょうど平成に元号が変わったあたりに発表された、評論と言えばいいのか、エッセイと言えばいいのか、とにかく既成のジャンルに当てはめるのは難しい文章だ。

 食、恋、友、身、性、金、家、夷、悪、美、心、死。これら12のテーマについて、秋山が自分の経験や読書遍歴を織り込みながら論じていく。このように書くと、なんだか説教くさいもののように思われてしまうかもしれない。しかし、秋山はこれらのテーマを論じることが、むしろ気が乗らないものであるかのように冒頭で宣言する。たとえば、「食。これは私が黙殺してきたテーマだ。」「恋愛。私のもっとも苦手なテーマだ。」「友。これはもっとも語りにくいテーマだ。」「身。これは嫌悪すべきテーマだ。」「金。お金のことだ。そしてこれは私のもっとも不得意なテーマである。」といったように。一周回って夏目漱石『夢十夜』を思わせるかのような(?)書き出したちである。

 そして、その論も、自問自答を繰り返していく。書いている本人が、一番困っているかのようなのだ。また、ところどころで古典と呼ばれる文章などを引用しているのだが、それらについてもしばしば、分からない、理解できない、ということを隠さない。こういった文章は、思えばあまり読んだ記憶がない。分からないことを分からなかった、とそのまま文章として残す評論。もしそんなものがあったとして、私にはまだ、それをする勇気はない。まずその点で、私はこの秋山の文章に感嘆する。

 本書のなかで、秋山が文章について論じている部分がある。デビュー作から長い間、自分の文章を読み返すことができないことについて、曰く、「自分の文章が(というか、雑誌に載った活字が)、鏡になったのだ。」と。この鏡を、まずは自室の鏡になぞらえ、自分で自分を見ることによって生じる嫌悪がある、という。しかし、これは嫌なら見なければいいだけの話だ、とも言える。秋山が実際にそうしたように、部屋から鏡を撤去してしまえばいいのである。

 次に、その鏡を理髪店の鏡になぞらえる。「その鏡は、他者が見るところの鏡だ。そこに映っている自分は、他者が見るところの私であり、私の身体である。いわば、これは社会の鏡である。」こちらは、「他者が見るところの鏡」である。つまり、そこに映る私は、「他者が見るところの私」なのである。問題は、どちらかといえばこちらの「鏡」であろう。文芸誌に載った文章とは、この「他者が見るところの鏡」として私に戻ってくるのだ。

 秋山は、個人的なメモと同人誌の文章は、まだ前者の鏡として読み返せるもの(同時に、憎くなったらとっとと捨ててしまえるもの)と言っているのだが、私のような小心者は、同人誌に載せる文章ですら、読み返したくないときがある。(対照的に、なんどでも読み返せる文章も多少ではあるが存在する。それについては、だいぶ個人的な、そして感傷的な話になってしまうと思われるので、次の機会に。)

 閑話休題。つまり、分からなかったという事実を書いて発表するということは、他者から、○○が分からなかったひと、として見られる痕跡を残すことである。これは難しい。なんだかんだ、文章を書いて発表する、という行為には少なからず自己顕示欲があるからだ。自己顕示欲という言葉は、とりわけ最近、かなりネガティブなイメージを持たされてしまっているように感じるが、しかし、自己顕示欲が皆無の文章なんてものは考えにくいし、そもそも、別にあったっていいじゃないか。悪いのは自己顕示欲そのものではなく、自己顕示欲に溺れて他者を傷つけたり、(広い意味での)法を犯すことの方にあるだろう。(それゆえ、そのような文章が書店にさえ溢れている状況は、極めて残念に思われるのだが……)

 だから、そもそも書くという行為は矛盾している。だれかに見てほしいから発表するのに、他者の目にさらされることに嫌悪感をおぼえるのだから。

 前置きが長くなったが、本書は様々な普遍的なテーマを論じながら、このような矛盾そのものを描いている作品であるのではないか。それは評論とも言えるだろうし、エッセイとももちろん言えるだろう。群像新人文学賞評論部門でデビューした秋山であるが、その文章は独特だ。これは私個人の話であるが、私が秋山駿に興味を持っている、という話を――ひとりは直接、もうひとりは間接的に――したとき、ふたりのひとが、秋山駿のエッセイストとしての資質を高く評価していた。私もその通りだと思う。順番は逆になるが、だからこそ、いまの私が関心を抱いたのだろう。

 いや、これはもはや私小説とすら言えるのではないだろうか。後期の秋山駿が私小説をさかんに論じていたことは、まったくの無関係ではないだろう。

 これらのテーマについて、秋山はしばしば、日本の近代文学はこれらのテーマをちゃんとは書いてこなかったのではないか、と疑問を呈す。すると、秋山のこの文章は、この自分の疑問に対するひとつの答えとなっているのかもしれない。

 いわゆる「小説」の形式ではないかもしれない。が、秋山はこれらのテーマをこの一連の文章で描いた。そんな風に感じられないだろうか。

 

 さて、本書の内容についてはこれくらいにしておく。私もまだ一読しただけ(それも一気読み)なので、内容を子細には記憶していない。しかし、とにかく良い読書だったことは間違いない。その感情のまま、書き殴っているようなものだ。

 最初にも書いたが、本書は432円ですぐに手に入る。おすすめだ。

 

 で、もうひとつ書いておきたいことがある。それは、これが秋山駿の後期の作品にあたる、ということだ。本書でも若かりし日の自分の思考や文章に手厳しい批判を加えている秋山であるが、私は少しであるが、彼のもう少し前の作品を読んだことがある。それこそ、代表作『舗石の思想』も含まれる。(余談だが、秋山駿の著書は古書店で、しばしば安価で手に入る。これは100円だった。)

 それらについても、私はとりあえず読み通すことはできた。ところどころおもしろい、とも思った。だからこそ気になってもいた。であるが、正直なところ、ちょっと難しいな、よく分からないな、というところも少なくなかった。やや観念的に過ぎる、と思わないでもなかった。あと、あまりにも暗いのである。

 その筆致は、本書にも多少は受け継がれている。しかし、それまでのものと比べると、圧倒的に読みやすかった。最近考えていることであるが、長く書き続けているひとの文章は、ある時点から無駄というか枝葉というか装飾というか、そういうものが取り外されて、太い幹だけがカーンと残ったようなものになるのかもしれない。

 それを感じたのが、小沼丹『懐中時計』(講談社文芸文庫)である。これは、小沼丹が妻を突然亡くしたことに端を発した「大寺さんもの」の第一作「黒と白の猫」から始まる短編集である。ここからの小沼丹は、私小説の色が濃くなっていく。ただでさえ、師匠である井伏鱒二をして「人間的に老成している」と評した小沼丹である。私は小沼丹の文章が好きなのだが、やはり、この晩期のものが特に好みだ。

 そして、この本の解説が、なんと秋山駿なのである。この本の発行が、1991年9月。『人生の検証』の単行本が1990年だから、ほとんど同じ時期の文章と言っても良いだろう。これがまた良い。 

 小沼さんの短篇を読むと、或る魅力というものが確実に伝えられてくる。しかし、その魅力の内容とか性質を、どう人に伝えたらよいのかという段になると、私は言葉を失ってしまう。

 (中略)

 そこで私は、この「解説」という役割からは下ろして頂きたいと思う。以下は、思い付くままの気楽な私の感想である。(280頁)

  初っ端がこれだ。そうは言いながら、小沼丹の随筆や夏目漱石『吾輩は猫である』、中原中也、コローの絵などをひいてきて収録作を彩るさまは、まさに読ませる文章だ。そしてなにより、結びは、なんと自分が講師を務めたカルチャー教室での出来事なのだ。

 私は先日、某カルチャー教室で、短篇のアンソロジー『文学1991』(日本文芸家協会編)をテキストにしたところ、そこには三十代から五十代の主婦二十数名がいるのだが、彼等が特に小沼さんの「水」を指して、異口同音、言葉がきれいだ、文章がとてもよかった、と言う光景に出遇って、私は感心した。

 ――ああ、文体というものは、こういう素人といっていい読者にも確実に伝えられるものなんだ、と。(290頁)

 多分私は、読者としても書き手としても、このような「素人といってもいい読者」にも伝わる文体を目指しているんだと思う。

 そして、『人生の検証』はそこに手をかけているように思われるのだ。その後、秋山駿は2013年に83歳でこの世を去る。思えば、『人生の検証』の最後の章「死」、その最後に、彼はこう書いていた。

 私はこの頃、いや誰だってそうなのだろうが、死が、恐怖や不安の対象ではなくなっていることに気がつく。ときに、慕わしいものというか、懐しいものとしても感ぜられるのである。

(中略)

 私は母と若くして別れた。だから――、ねえお母さん、その後私はこんなふうに生きてきましたよ、と告げたく思う。

 私はこれから、死の影を見ないようにする。死の光りを視ながら、ゆっくりと一歩一歩、生の階段を降りていこうと思う。いや、昇って行こうと思う。

 この「これから」に書かれた彼の作品を、私も「これから」、追っていきたいと思う。

 

底本:秋山駿『人生の検証』新潮オンデマンドブックス、2002年

 

(文責 宵野) 

中村文則『掏摸』 運命へのささやかで確かな抵抗

 中村文則の『掏摸』を近所の本屋で買って読んだ。

 

 著者の名前やその著作『教団X』などは知っていた。しかし、彼の著書を読んだのはこれが初めてであった。なぜこの作品を最初に選んだのかと言えば、著者が友人相手にこの小説を書くために掏摸の練習をしたという、どこかで読んだ逸話が記憶に残っていたからだ*1

 また消極的な理由で言えば、長編小説としては短く文庫で安いのでつまらなかった時にがっかりしない、ということもあった。だがそれは取り越し苦労で、面白く読ませてもらった。

 それで一つ書評でも書こうかと思ったのが、『掏摸』は三十万部を売り上げた小説であり、ある程度書評も出回っている。そんなわけで今更この作品を事細かに紹介してもしょうがないだろう。私が印象に残った場面とそこから感じたことをつらつらと述べるのをこの書評の主眼にしよう。

 まず、『掏摸』のあらすじを大まかに書けば、凄腕の掏摸の主人公がその技術を買われ、否応なしにある陰謀に参加させられるといったところだろうか。勿論本一冊分もの小説だ。こんな短いあらすじですべてがまとめられるわけはないのだが、無理やりまとめるとこうなる。ちなみに小説の筋は理解しやすいし、それ自体もこの小説の一つの魅力だろう。

 そんな話の本筋とは直接的に関係がない*2、裏の筋として主人公とある子供との交流がある。ある日主人公はスーパーで万引きを試みている子供を見かける。少年は母親に万引きを命じられているようだったが、その技術は拙くしかも監視員に見られていた。見かねた主人公は母親にバレていると告げる。

 同じようなことが更にもう一度あって、本業が掏摸の主人公は子供に万引きのお手本を見せる。更には、有名な掏摸の愉快な逸話を話したりする。

 熟練された行為にはしばしば美しさや鮮やかさが伴い、人はそれに惹かれる。場合によっては、それが違法行為であったとしても。その子供も掏摸を単に母親からの命令を実行したり、食料を得るための手段以上のものとして見ている。最初に主人公が子供に万引きを見せる場面、つまり三つものヨーグルトを袖に入れてくすねた場面を引用しよう。 

子供は真剣な表情で、僕の指を見つめ、それから、不可解なものでも見るように、僕の顔を見続けた。手を下げても、ヨーグルトが落ちないことが、彼には不思議であるようだった*3

 子供にとって主人公はまるで巧みな手品師のように見えただろう。さらには、子供自身は知らないことなのだが、主人公は富裕層をターゲットに掏摸を行っていた。主人公が子供に渡した金も、孫に土産を買おうとしている金持ちの老人からスッたものだった。それもいかにも金持ちが多そうなクラシックのコンサート会場で。明白な対比構造が描写されているわけだが、ある程度小説を読み慣れた人は逆にわざとらしい、あからさますぎると感じるかもしれない。

 主人公は最後には母親に金を渡し、彼女の恋人に虐待を受けている子供を施設に預けることを了承させる。これは一種の違法な所得再分配、違法行為による格差解消と言えよう。義賊として美化された鼠小僧に顕著なように、そうした行為は時に痛快にすら描かれる。おそらく大半の人は名前も知らないだろうが、最近の作品としては肥谷圭介『ギャングース』がより露骨にこの路線に近い。

 貧しい少年たちが窃盗団を結成し、犯罪者相手のタタキ=強盗を行う作品である。そして、その中のひとりの少年は強盗をする度にランドセルと現金を児童養護施設へ寄付する。もしかすると、鼠小僧が下敷きになっているのかもしれない。

 このような違法行為によって、正義を実現しようとする思想を全否定することは難しいだろう。例えば、独裁国家を考えてみればいい。暴動や反政府デモなどの違法行為なくして、自由の実現はおよそ不可能である。勿論、貧富の格差はそれとはまた違う問題であるが、現状の法秩序によって救われない、むしろ不利益を被っている(しかも法を破ろうと考えるほどの)人々がいるという点では同じなのである。

 話を戻そう。主人公は一方で金をやるから万引きはするな、有名な掏摸の末路は皆悲惨であるとも子供に言うのである。名人芸を披露し、掏摸の逸話を紹介したあとにそんなことを言うのだから矛盾しているし、滑稽にさえ思える。ここには掏摸という行為への主人公自身の背反する感情が表れているだろう。

 実際、主人公もまた結末で悲惨な結末を迎える。命令通り任務を成功させたにもかかわらず、木崎という陰謀の首謀者の半ば気まぐれによって、殺害されそうになるのである。子供を救った華麗な掏摸の技術は、それよりも大きな力の前では無力だったのである。

 瀕死の主人公に木崎はこう告げる。

 「なぜ殺されたのか、なぜこうなったのか、分からんだろ。......人生は不可解だ。(中略)お前は、運命を信じるか? お前の運命は、俺が握っていたのか、それとも俺に握られることが、お前の運命だったのか。だが、そもそも、それは同じことだと思うわんか*4

 世界は偶然によって成り立ち、理不尽である。話がガラリと変わるのだが、私は麻雀が好きでそれなりの腕がある。ある時、知人二人にルールを教えるために卓を囲んだ。彼らは和了りの形すらよく分かってないので教えながらの麻雀だったが、驚いたことに一向に運が向かずに私が負けてしまった。極端な運の偏りは実力を無効化するのだ。ただし人生が麻雀やポーカーと違うのは、運の存在、例えば生まれや持って生まれた能力の違いをしばしば人間が忘れること、運の再分配が起こりづらいことではないだろうか。

 その理不尽に対抗しようとするなら、やはり偶然が必要とされるのかもしれない。たまたま貧しい家庭に生まれ、虐待を受けていた子供が、たまたま主人公という本当の意味での保護者を得たように。このことは、主人公が小説の最後で、自分に気づかない通行人にぶつけ、助けてもらうためにコインを投じる場面とも繋がっているだろう。

 それがぶつかるという保証はどこにもない。より大きな運命の前ではあまりにも無力な行動であるが、何故か希望を感じられる結末なのである。私は天の邪鬼なので単純な大団円はあまり好きになれないが、このような不確かな前向きさにはどこか好感を感じる。

 私はどちらかと言うと小説の好き嫌いが激しい人間である。お気に入りの作家の小説ならばともかく、適当に一〇冊読んで面白いと感じる本は恐らく一冊ぐらいしかないのではないか。そんな私だが、中村文則の小説を更に読んでみよう。そんなふうに思える本であった。

 

引用文献

『掏摸』(2013)中村文則 河出書房新社

 

*1:一応そのことについての記述があるサイトは見つけたがここで読んだわけではない。

junglecity.com「芥川賞受賞作家・中村文則さん朗読会」

https://www.junglecity.com/jcommunity/fuminori-nakamura-interview/

*2:もっとも小説の後半では関わってくるのだが

*3:『掏摸』76,77ページ。

*4:『掏摸』181,182ページ。

読書するからだで書くということ―堀江敏幸『傍らにいた人』

 読書という行為は体験であり、すなわちそれは身体性が伴うものだと思っている。

 それは紙の本でも電子書籍でもいいのだが、どちらにしても、読書のなかには頁をめくる手の動き、文字を追う目の動き、手に掛かってくる重みがあって、それは読書という行為から切り離せない。とりわけ紙の本のときには、紙をなでる指の感触、手に掛かる本の重み、紙がこすれる音、積み重なる紙の厚み、なんてものも付随してくる。ある作品について思い出すとき、五感の記憶がいっしょになってよみがえってくる。得てしてそのような思い出され方をする作品の方が、たとえその内容がおぼろげになったとしても、とても強く印象に刻まれているものだ。

 

 堀江敏幸『傍らにいた人』(日本経済新聞出版社)は、2017年3月4日~2018年2月24日の日本経済新聞朝刊に、週に一本のペースで連載されていた文章をまとめたものだ。

 毎回、基本的にはひとつの作品を決めて論じていくのだが、その着眼点が、まず独創的だ。

 その方針は、トップを飾る「傍点のある風景――國木田独歩「忘れえぬ人々」」で示される。

国木田独歩 忘れえぬ人々 (青空文庫へのリンクです)

 その場にいたときには目の前をあっさり素通りして気にもとめていなかった人の姿が、なにかの拍子にふとよみがえってくることがある。(10頁)

 思い出されるまで、覚えているとすら思われなかった人たち。「思い出されてはじめて、なるほどその折の風景のなかに目立たない傍点が打たれていたのだと気づかされるような影たち」と「物語の頁の風景のなかで」何度も遭遇してきた、と語る堀江敏幸は、「たとえば春先の三月」、つまりちょうどこの文章が発表された時季に、この「忘れえぬ人々」が思い浮かぶ、という。

 国木田独歩の「忘れえぬ人々」は、ある宿で偶然出くわした無名の文学者である大津と画家の秋山が主な登場人物だ。

 

 大津はまさに、「忘れ得ぬ人々」という作品を書いていて、その話を秋山にする。その作品に描かれているのは、彼が旅の中で偶然目にしただけの、それこそ大津にとっては名前もないような人々。しかし、それが大津にとっては「忘れ得ぬ人々」なのだ、という。

 その2年後、視点は大津に向かう。その机上には「忘れ得ぬ人々」があった。

大津は独り机に向って瞑想に沈んでいた。机の上には二年前秋山に示した原稿と同じの「忘れ得ぬ人々」が置いてあって、その最後に書き加えてあったのは「亀屋の主人」であった。

「秋山」では無かった。(『武蔵野』188頁)

 

 話のなかで、「亀屋の主人」はそれほど出てこない人物だ。まさにこれが、「忘れ得ぬ(忘れえぬ)人々」を象徴している。

 なぜ忘れられないのが、あれだけ長時間語った秋山ではなくて、無口な主人だったのか。そこに文学的解釈、作者論的解釈も可能かもしれない。しかし、ここで解釈をせずにそのまま受け入れること。そして、堀江敏幸もまた、自らの読書経験のなかの「忘れえぬ人々」を思い浮かべる。この52の短い文章に一貫しているのは、そういった態度である。

 国木田独歩から始まったこの文章は、「忘れえぬ人々」の舞台の溝の口から多摩川と連想を広げて安岡章太郎「夕陽の河岸」へ、水、優秀なものの夭折つながりで、井伏鱒二「鯉」へ――そして小沼丹「搖り椅子」、庄野潤三「プールサイド小景」とに戦争の残り香を見て、終わる。こうしてゆるやかに作品から作品へとつながっていく。

 

 解釈をせずにそのままを受け入れる、と言ったが、これがけっしてただ受動的なものでないことが、ここからもわかるだろう。すべては、この文章の書き手、つまりここでは堀江敏幸というひとりの生身の人間の体験があって、初めて生まれうるものなのだ。たしかに、作品を解剖、腑分けするかのようなダイナミックさには欠けているかもしれない。それを「主観的な感想に過ぎない」と言うのなら、それもそうなのかもしれない。

 しかし、作品とはだれかに読まれて初めて作品となる。そうした経緯で生まれた作品を語るとき、そのだれかたる読者のからだを抜きにして、果たしてそれは可能なのだろうか。

 読書には身体的な体験が伴う、と言った。そしてその身体とは、たえず生まれ変わっているものでもある。ある小説を再読したとき、どうにもその感触に変化があるように思われるのは、読書と肉体が切っても切り離せない相関関係にあることを証明している。

 規模の大小を問わず、ひとつの文芸作品を読んで記憶の奥底に刻まれるのは、物語の筋とは一見かかわりのなさそうな細部である。(…)重要なのは、ほんの些細な事柄に対するまなざしが、読み手の心身のバランスをつかさどる五感と結びついているかどうかである。感覚に訴える話の細部は、読んだ時期や年齢によって有機物のように変化し、胸に刺さる部位も変わる。再読の楽しみと驚きはそこにこそあって、以前と異なる個所に惹かれている自分がいたとすれば、それだけでひとつの事件なのだ。(33頁)

 私はかつて、大江健三郎の小説を読んでいたときにどうしても読み進めることができないことがあった。元々、大江の文体があまり肌に合わないこともあるのだが(ここにも「肌」という肉体が)、それにつけても、読み進められない。なぜだろう。とにかく言い訳を考えていたときに、目は窓の外に向いた。季節は梅雨時、大雨が続いて昼でありながら、空は薄暗い。「あ、そうか」。私は思った。「湿度が高いときには大江の文章は湿っぽすぎるんだ」。

 もちろんこれは冗談半分ではある。ただ、まるっきりの見当違いとも言えないのかもしれないのは、大江の作品は汗だとか精液だとか、とにかくよく液体が出てくるのだ。それが、そのときの気候とは少し合わなかったのかもしれない。

 これも「読者の心身のバランスをつかさどる五感」とまったくの無関係ではなかろう。(ちなみに、以来大江健三郎の小説は『懐かしい年への手紙』しか読んでいない。これは大江健三郎のなかでは相当癖がなくて読みやすいものだと思われるから、比較して検討することができない。機会があれば、今度読んでみよう。)

 

 私のゆるやかに貫いている関心に「ジャンル」というものがある。柄谷行人ではないけれども、作品とジャンル、いったいどちらが先にあるものなのか、いまや断言することは難しい。たとえば、ひとは夏目漱石の作品を、純文学と大衆小説、どちらだと思っているのだろうか。もしかしたら、日頃あまり本を読まないひとにとっては、「文豪・夏目漱石」の作品は純文学だと感じられるかもしれないし、そのように読まれているかもしれない。しかし、漱石が活躍した時代には「純文学」「大衆小説」という名称はなかったと言ってもいい。だから漱石は、純文学を書こうとも、大衆小説を書こうとも思っていなかっただろう。

 あるいは、ジャンルありきの書かれ方、読まれ方ともあるだろう。「○○の書き方」といった指南本やサイトがたくさんあるが、この○○にはジャンル名が入ることも多い。

 これは書評とか批評とかエッセイとか、そういったものについても言えるだろう。私はこうしていま、「書評」と自分でとりあえず呼んでいるものを書いているけれど、文芸雑誌などに掲載されている書評を見てみると、どうも自分のは少し違う気がする。しかし、ジャンルを念頭に置きすぎると、自分の文章が妙に箱に押し込まれたものになってしまっている気がして、納得がいかないことが多い。

 では、この『傍らにいた人』はどうなのだろう。書評なのか評論なのか、はたまたエッセイなのか。

 しかし、このような問い自体が野暮なのだろう。堀江敏幸はそもそも、小説とエッセイを行き来するような文章の書き手であるし、自分のことを「小説家」とは言わない。とりあえずのところ「作家」というにとどまる。そんな、狭義のジャンルを無化してしまうような書き手なのだから。

 そして最近の私は、小説ともエッセイともつかないような作品に惹かれている。すべてを読んでいるのではないが、うそのことでないと面白くない、本当のことを嘘らしく書く、と言っていた谷崎潤一郎の『吉野葛』が気になっていることなどが、具体例としてあげられるかもしれない。とりわけ、歳を重ねてから私小説を書き始めたひとについて気になっている。まだしっかりとは読めていないが、森内俊夫や小川国夫、大城立裕などが気になっている。そういえば小沼丹にも私小説的な「大寺さんもの」があり、そのうちの一作が、『傍らにいた人』で取り上げられている。「大寺さんもの」は、小沼丹が相次いで妻と母を亡くしたことを契機にして、書かれ始めた一連の作品である。堀江敏幸の師でもある平岡篤頼の遺稿を集めた評論集『記号の霙』(太田出版)の副題は「井伏鱒二から小沼丹まで」だったりもする。『傍らにいた人』の三番目が井伏鱒二、後ろから二番目が小沼丹というのも、偶然の符合だろうか。また、『記号の霙』の解説は堀江敏幸である。

 また、これらの作家と同じ場所に並べていいのかわからないーーまあ私はべつに構わないと思っているのだが、自費出版のなかには、高齢の方の自伝が少なくないらしい。死が明確に見えたとき、ひとは自分について語りたくなるものなのだろうか。気になるところである。

 とにかくひとつ言えるのは、活字になっても言葉は語られるものであって、そのとき、語り手の身体性はやはり切り離せないのだろう、ということだ。

 

 ところで、いまぼちぼちと平出隆の散文を読んでいるのだが、そういえばどこかで、さっきちょっとだけ名前を借りた夏目漱石が出てきたような出てこなかったような。

 そう思って、平出隆の、隣家の猫とのふれあいを描いた『猫の客』の文庫版(河出文庫)を開いてみたら、あった。しかもその直前に線まで引いてあった。「文庫版にそえて」と付された、あとがきのようなところからだ。

 この書きものについては、ずいぶんいろいろな読者の方から、いろいろな感想や批評を頂戴した。小説評としてではなく、虚実双方にわたるものや虚実の境をくずしてのものも多かった。チビがしたように、静かに境をくずすことは私の期したところでもあった。夏目漱石の翻訳者でもある末次エリザベートさんのおかげで、国語の境まで越えてフランスの読者に迎えられたことは、思いがけない、大きな贈りものであった。(166頁)

 猫つながり、というわけではないが、夏目漱石『我輩は猫である』も響いてくる。あれも、文豪・夏目漱石の作品ということでがちがちの文学と思われている節もあるが、むしろ落語、講談的な軽快な面白さがあって、あるいはエンターテイメントではないか、と言えないこともないと思う。

『猫の客』はいちおう、平出隆の最初の小説ということになる。

  

 が、この『猫の客』も、小説第二作『鳥を探しに』も、平出隆の小説はかなり作者の実体験が基になっている。しかし、だからなんだと言うのだろう。ひとりの読者として、小説が完全な虚構かどうかなんて、実はそれほど大事なことではないのではないか。

 谷崎は、芥川との論争のなかで、作者の実生活が基になっているかどうかなど、要素のひとつでしかない、と言っている。芥川も、作者の実生活を描いているかどうかによって芸術的価値は決まらない、と強く主張している。そして時代はさかのぼるが漱石もまた、ある作品、作家が浪漫派か自然派なのではなく、ひとつの作品にも浪漫派的要素と自然派的要素があって、あるのは比率の違いなのだ、と言っている。

 谷崎と芥川の「〈小説の筋〉論争」、とくに「「話」らしい話のない小説」という芥川の発言をしばしば取り上げている『傍らにいた人』についても、これを書評集とするのかエッセイと見るのか、だからそんなこと自体が野暮なのだ。いや、少なくとも私にとっては問題ではない。いい文章を読んだ。そんな感触が残る本だった。それだけで十分だったのかもしれない。

 小説の楽しみのひとつは、全体の流れや構造とは関係のない細部につまずくことにある。その箇所だけが頭にこびりついてまわりの濃度が薄まったり、残りを忘れてしまったり、つまずきの意外性と喜びはさまざまなあらわれ方をする。一行が独立した力をもって浮きあがってくる現場に出くわすのも解釈にとらわれない読書体験のうちであって、その印象が強烈だからこそ、出会いの原風景にいつでも戻ることができる。たとえばこの夏、何度か立ち返ったのは、「私は顔がねばねばする」という一文だ。(148頁)

 私はここで取り上げられている川端康成「骨拾い」を読んだことがあるが、この一節は記憶になかった。同じ『掌の小説』なら「日向」(これも取り上げられている)や「雨傘」「バッタと鈴虫」などが印象に残っている。同じ文章を読んでいるはずなのに、印象に残っている箇所がこれほどまでに違う。これもまた、読書の面白さと言えるだろう。

 ちなみに、私が『傍らにいた人』のなかでひとつ、印象に残っている些細な文章を挙げておく。

 日常から少し降りた旅先の時間のなかにいると、人は受け身の力を発揮する。心のこわばりが取れて、ものごとを否定的にではなく見られるようになるらしい。(241頁)

 中野重治「萩のもんかきや」についての本論に入るための導入の、まさに冒頭の一段落なのだが、これが妙に記憶に残っている。

 たぶんそれは、先日、私が初めてひとり旅をしたときに感じた、時間の流れが緩やかで心穏やかになった、午睡の夢のような一泊二日に体験した五感が、この短い文章によって呼び起こされたからなのかもしれない。

 その旅のなかで、私は川端康成『雪国』の空気を吸い込んだ。その土地は、越後湯沢である。

 

底本

国木田独歩『武蔵野』新潮社 2012年 94刷改版

平出隆『猫の客』河出書房新社 2009年

堀江敏幸『傍らにいた人』日本経済新聞出版社 2018年

 

 

(文責 宵野)