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習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第3回

 

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第3回

 第二章「すべての猫が灰色に見えるとき」。

 日が沈み、雲が月と星々を隠していた。雲は空を覆い尽くし、残された光を奪ってしまう。庭の片隅に、それは姿を現した。リラのすぐそば、ほとんど乾き切った大きな金雀児の近くだ。それは壁影の一角に隠れていた。角にあるくぼみで、他所よりもいくらか暗闇が深かった。(22頁)

  これまでは前置きで、ここから本格的に物語が始まっていくのだな、と思わせる冒頭、少ししてすぐのこの一段落では、主にふたつの疑問が生じる。「それ」とは?「リラ」とは?と。……と思いきや、なんと「リラ」とはフランス語で「ライラック」を意味する言葉だそうだ。これはちょっと知らなかった。ので、大きな疑問はひとつだ。「それ」とはいったい?

 直後で、「それ」が猫であることが明らかになる。しかし、このとき猫の姿をきっちりと捉えることはできていない。

視線が捕らえるのは猫が逃げるときの動きだけ、立ち去るときに通り抜ける空気のなかに残していく痕跡だ。つまり、猫がそこにいたことを告げるのはその動きなのだ。だがそれも、猫がもうそこにいなくなって、その場所をほんとうに離れてしまってからだ。(同)

  猫ほど、気配を消すことに長けている動物はなかなかいないのではないか、と思うことがある。塀のうえに寝そべる野良猫に、目の前に行くまで気づかなかったり、急に脇から飛び出してきたり。また、私の伯母の家には猫がいて、近くに住んでいるから、届け物を持って行ったりもらいに行ったりするときに少しお邪魔して、猫を見させてもらう。とくに、ほかの家族がいないとき、その猫がいる二階に上がると、電気もついていない二階は、しんとしている。ゲージは開いていて、なかに猫はいない。あたりを見回すがまったく見当たらず、となりの部屋のベッドの下にでももぐってしまったのかもしれない、と諦めて、従兄弟が買い集めている漫画をちょっと拝借して読む。2冊くらい読み終わってのびをすると、壁掛けの棚のうえから、私のことをじいっと見下ろしている猫と目が合う。おまえさん、そんなところにいたのか。近寄るとびくっと身構え、手を伸ばすと後ろ脚を屈めて、ぴょんと床に降りて、すたすたと足音を立てずにどこかに行ってしまう。そのくせ、放っておいて漫画を読んでいると、前触れもなく現れ、背中にからだを擦りつけたりしてくる。構って欲しいのかな、と手をしたから伸ばすと、やっぱり手を避けて、棚の上に戻っていく。猫は、いつそこに来たのかわからず、気がつけば来ていて、そしてすっといなくなってしまう。

 それは姿を現した、と言った。いや、ちょっと軽率だ。逆のことを言うほうがより正確だろう。どれほど非論理的に思えたとしても、ひとは、猫がやってくるのを見るより先に、まず立ち去るのを目にする。消失は出現に先立つ。この法則にはほとんど例外がない。やってくる姿を目撃する前に、まずその出立を目の当たりにするのだ。(23頁)

 こんな感じだから、最初がいつなのか、じつはよく分からない。「最初のとき」が無数にある、ありうる状態なのだ。

 わたしが注意を払って名前を与える前に、その現象はまちがいなく何度も起きていたはずだ。つまりそれ以前にもいくつもの「最初のとき」があったのだろう。そして、同じ数だけの出現が、いやむしろ消失があったのだ。いわば、いくつもの発現だ。何度か起きて初めて、わたしはそのすべてが同じ性質であることに気づき、近くに住み着いているにちがいないたった一匹の動物によるものだと思い至ったのだ。(23、4頁) 

 これは帰納的証明である。そういえば、前の章には「帰納」の対義語である「演繹」の語があった。

 仮に実験が可能だとしても、箱のなかの猫が死んでいると同時に生きていることや、死んだ被造物と生きた被造物をうちに含んだふたつの世界が密接に絡み合った状態にあることに、本気で賭ける科学者がひとりでもいるとは思えない。「重ね合わせの原理」は、少なくともわたしの理解では、仮説としての位置づけしかもたない。素粒子のみを対象にした、きわめて特殊な規約に従った実験を説明し、その結果を予測するために必要なものなのだ。結局のところそれは、純粋な確率の計算だ。「重ね合わせの原理」とは、実際の検証(同時に存在しながらも不可能ゆえに対立した複数の側面をもつ現実を、きわめて強力な一種の顕微鏡を通して肉眼で見るように正しく見ることを可能にする検証)に依拠するというより、量子状態がいくつもの実質(この場合は「状態ベクトル」と呼ばれるべクトル)によって抽象的に表象されていて、そうした実質はいずれも、無数にある他の実質として分解されながらもその総体と考えられるという事実に依拠している。そう考えると、この原則の神秘性はほとんど失われてしまう。つまり、素粒子にあてがわれる重ね合わせの能力は、状態ベクトルを表す数学的な形式から演鐸されると言ってよい。(19頁)

  どこで切ればよいのか、どこを省略すればいいのか、非常に難しい文章だ(余談だが、私はできることなら「中略」のようなことをせずに引用をしたい、という気分がいまはある)。たとえここで言っていることがあまり理解できなかったとしても、「わたし」が、この演繹で導かれる「重ね合わせの能力」には、あまり魅力を感じていないことは察せられるだろう。

 それにしても、ひとつ前に引用した箇所には、「はずだ」「だろう」「ちがいない」という、「わたし」の主観的な判断を示す語が頻出する。「その存在も、はじめは仮定の域を越えはしなかった。同じ猫だという証拠は何ひとつなかった。」と直後に語るのも道理だ。

 この猫は、主観的な存在、あるいは表象として現れている。目の前に現れているのは動物としての猫ではなく、猫のかたちをして現れたなにか、という風に考える。そうすると、「ほとんど至るところで定期的に見かけるようにな」るのだ。

 存在するのはただ、いずれかの時点で、その存在を信じようと決心したものだけだ。(25頁)

 前の章で、物語に考えを託すことが語られていた。ここでも、存在を信じよう(「信じる」のとは少しちがう)とすることによって、立ち上がってくるものがある。

 ここで、唐突に電話での会話が入る。相手はおそらく女性。「一緒に住んでいたというよりも、その家に交互にやってきていた」と言うが、いったいどんな関係なのか。なんとなく夫婦であるようにも感じるが、ここでは確証がない。

 そのあと、「わたし」はその猫の所有を否定する。夕食を終えると、 葉巻を吸って、ウイスキーを飲みながら、庭の虚空を観察する。このときにも、その場所を「所有地」と言ったことを訂正する。そして、それを砂場のような場所だと言い直す。そんな「砂場」で、「わたし」は、「何かが現れるのを待」つ。さて、これまで何度か境をくずす存在として、猫を見てきた。ここで、猫はどこから現れるのか。

 ほとんど液化して粘り気のあるものがじわじわと砂の上に広がり、あらゆる姿形にはりつくさま。そのくすんでどろどろとした組成。飲み込んだものの上に塩めく閃光。それはいわば、重油で汚染された液体のようだった。ゆっくりと河岸を浸す黒々として粘りのある水は、庭の奥にできていたあの口から徐々に飲み込まれたものにちがいない。どこよりも暗いその片隅は、猫が最初に現れた場所でもあるが、正確には穴というよりも、敷地と隣家を仕切るふたつの壁の繋がりが悪くて角にできた隙間だった。(28頁)

  猫はやっぱり、境を越える。そうに「ちがいない」、と「わたし」は思っている。でも、実はどこからやってきたのか、その現場を目撃はしていない。だから、「この命はどこからやってきたのか。見きわめようと目を見開いても無駄だった。」と言わざるをえない。「わたし」のこの行為は、なんとも詮無いことだった。けれど、それだけではない。本当にまったく意味のないことならば、物語は進まない。だから、葉巻を吸い、ウイスキーを飲みながら暗闇に目を凝らすことで、生じることもある。

 それ以上言うことはなかった。だが一方で、こうして暗闇に目を凝らし、影がどのように作りあげられるのか観察し、影が独立した存在となって虚無から身を離し、わたしのほうへとゆっくりと進んでくるにいたるまで、どのようにして中身に満たされるのかを見張っていると、わたしはずっと昔にうち捨てた仕事を視線によってやり直している気がした。かつて、わたしの関心を一瞬だけ引きつけた仕事を。

 

 ほんとうに昔のことだ。

 

 それがいま、こうして再開することに、わたしはいくらか驚いていた。(30頁)

 「むかしむかし、あったこと」。これから語られていくのは、そんな昔話になっていくのだろうか。しかし、ここまで読んできているからわかる。昔話は、ただ昔を懐かしむだけのものではない。昔話を「信頼」することで、「永遠の複数性を備えたあらゆる可能態が至るところに分散してゆく」。だから私も、「わたし」の昔話に信頼を寄せながら、目を凝らしながら、ついていく。

(第4回に続く)

 

(宵野)

習作としての読書ノート 『シュレーディンガーの猫を追って』第2回

 

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第2回

 

 第一部に入っていく。第一章「むかしむかし、二度あったこと」。

 むかしむかし。子どものころを思い出す。おとぎ話のはじまりはいつもこれだった。まさか、この小説は童話になっていくのだろうか。とにかく読み進めよう。

 シュレーディンガーの猫。それは、古典物理学と重力の法則におけるニュートンの林檎のようなものだ。量子力学とその法則において、シュレーディンガーの猫は同じような役割を果たしている。つまり、素人向けの寓話、結局は理解できない事柄を、何とか説明しようとするもの。いわば、ひとつの小説、一篇の詩だ。(10頁)

 「シュレーディンガーの猫」を「寓話」「小説」「一篇の詩」と呼んだひとは、あまりいないように思われる。しかし、言われてみればたしかにそうだ。あれはあくまで思考実験なのであって、シュレーディンガーが実際にこの実験をおこない、生きていて、同時に死んでいる猫を生み出したわけではない(はず)。空想上のもの。となれば、たしかに創作といったいなにが異なるのか。

 そして、ニュートンの林檎、これはつまり、ニュートンが木から林檎の実が落ちるのを見て万有引力の法則に気づいた、という逸話のことだろう、これと同じだと言う。ニュートンの林檎についても、実話なのか伝説なのか、見解が分かれているそうだ。まあ、あれもたしかにできすぎた話のようにも思われる。が、ここではどちらでもいい。たぶん、フォレストもそう思っているのではないか。虚と実を峻別することにこだわる人間は、暗闇に、いるかいないかもわからない黒猫を探そうとはしないだろう。

 ところで、ニュートンは大変な猫好きだったそうだ。ここでもまた猫か。

 ニュートンの時代、猫をペットとして飼う習慣は、イギリスにはまだなかったという。船乗りが、船を囓ってしまうネズミを捕る動物として猫を重宝していた、という話は聞いたことがあるが、これはペット、愛玩の対象としてとは異なる。

 ニュートンが飼っていた二匹の猫は、いまの猫とやっぱり同じで、家のなかにとどまらず外にも出ていた。そして、外に出ていた猫が家に戻ってきてドアを開けることを催促すると、たとえ執筆中でも、ニュートンはドアを開けに立った、という。

 そんなニュートンが発明した、と言われるのは、キャットフラップ、いまでいうキャットドアだ。あの、ドアの下の方につける、窓が振り子のように動いて、ドアが閉まっていても猫が自由に出入りできるようにする、あれだ。ここでも猫は、内と外の境をくずす。ニュートンは、大きさの異なる二匹の猫のために、それぞれのからだに合わせ、大きい方には大きい扉を、小さい方には小さい扉をつくってあげた。しかし、なぜか二匹とも大きい方の扉しか使わない。こればかりは、ニュートンにも理由が分からなかったらしい。

『作家の猫』(平凡社、2006年6月)という本がある。コロナ・ブックス編集部の手によるもので、雑誌『太陽』の特集を再編集したものだ。夏目漱石、寺田寅彦などをはじめとして、南方熊楠、コレット、ヘミングウェイ、藤田嗣治など、さまざまな作家の猫にまつわるエピソードを、多くの写真を交えながらまとめている。裏表紙(厳密にはカバーの右側)には室生犀星と、火鉢に手を掛けて温まる飼い猫ジイノの写真が使われている。室生犀星といえば、以前、二階堂ふみ主演で『蜜のあわれ』が映画化された。そのとき、室生犀星を思わせる作家のおじさん役を、少し前に惜しくも亡くなった大杉漣が演じている。このカバーの室生犀星の笑顔が、『蜜のあわれ』での大杉漣を彷彿とさせるのだ。これには驚いた。いや、よくよく考えたら逆で、『蜜のあわれ』の大杉漣が、実際の室生犀星を彷彿とさせるのだが。改めて、惜しい人を亡くしたものだと思う。この本は、作家と猫のおかしなエピソードが数多く紹介され、それだけではなく写真には、茶目っ気のあるキャプションが付されていて、至るところでくすっと笑ってしまう、とてもおもしろい本だ。どこもおもしろいのだが、猫嫌いから猫好きになった寺田寅彦の少しずれた猫のかわいがり方や、実は猫好きで、道で猫を見ると必ず立ち止まって眺めていたという三島由紀夫の話なんかが、非常に愛らしい。

 思わず猫に熱くなってしまった。

 というのも、『シュレーディンガーの猫を追って』はこの先しばし、「シュレーディンガーの猫」を巡る論争を解説しはじめるのだ。正直、感想に困る。とはいえ、難しすぎるわけではなく、順を追えばなんとか理解はできる。ざっくりならば、当初の私の解釈と大きく外れてはいない。というか、前回、私はウィキペディアをちょっと覗いたのだった。そこでの説明を、もうちょっと丁寧にしてくれているのがこの箇所だ、と考えてもよいだろう。

 ここで、大きく行が空いてから。

 少なくとも、これがわたしの理解だ。

 

 あるいは、理解したつもりのものだ。(16頁)

 「わたしの理解」、「理解したつもりのもの」。小説的語りに戻ってきた。

 だが、記述の正確さはまったく保証はできない。現代物理学の諸原則に関する発表の締めくくりとして、発表者が聴衆に投げかける有名な言葉はみなさんもごぞんじだろう。「もしわたしの話が明快だったとすれば、それはわたしの説明がまずかったからです」(同)

 いや、全然知らない。が、それは措くとして。ここにはふたつの意味があるだろう。

 ひとつは、フォレストの説明はまあまあわかりやすい。つまり、フォレストの説明が「まずかった」のだ。冒頭で科学者たちに謝ったのは、そういうことからだろう。あなた方の専門領域のテーマについてまずい説明をしてしまい、すいません、と。

 ふたつ。現代物理学の専門家の話は、正直よく分からなかった。そんな苦労を吐露しているのかもしれない。実際、その直後で「量子力学は実験と方程式を基盤として展開しているが、科学に精通していない人びとにとっては、その初歩すら覚束ない。」と断言している。

 フォレストの筆はここから存在論、哲学、あげくアリストテレスまで思い出していくのだが、「しかし、無残に迷走する前に、このあたりで止めよう。」と宣言して、袋小路に陥りそうな思考の迷路をいったん断ち切る。そして、このようにまとめる。

 すべては、決まって同じ議論が交わされる枠のなかで繰り広げられている。果たして現実世界は、意識が作りあげるその表象をこえて存在するのか、もし存在するならどんなかたちなのか。要するに、議論の主題は、現実世界の実存をめぐるこの解決不可能な唯一の問題だ。(18頁)

 難しそうな問題だ。胡蝶の夢という言葉を思い出す。いま自分がいるのが、夢なのか現実なのか、わからないような状況。考えたことはないだろうか。自分がいる、いま・ここの世界とは別の世界がどこかにあって、並行して動いているのではないか。いや、そもそも、自分の世界が絶対だと思っているけれど、じつはこの世界は、べつの世界の誰かが観ている夢なのではないか、なんて。

 突拍子もない妄想だろうか。しかし、いま自分のいる世界が唯一の世界である、なんて、いったいどう証明すればいいのだろう。「ない」ことの証明。これは悪魔の証明と呼ばれるもので、非常に困難なものである。「ある」ことの証明がひとつの実例を発見すればよいのに対し、すべての可能性を潰さねば証明できたことにならないからだ。あろうがなかろうが、いや、ないことを確信していようが、暗闇に黒猫を探さねばならない。すべての場所を歩けばいいのか。しかし、そのあいだに一匹だけの黒猫が足音を立てずに移動している可能性がある。

 さまざまなおとぎ話。それらが現実に対して及ぼす影響は同じではないが、いずれも現実を説明しようとしながら、決定的な手がかりをもたらしはしない。おそらく、唯一の智慧ある態度は、現実を説明しようとしてはならないと認めることだろう。(19頁)

 実際には「現実を説明しよう」とするひとがたくさんいる。ところで、私は中学生くらいまで、自分の言うことに「ぜったい」をかぶせていた節がある。「ぜったい」そこに置いた。「ぜったい」言った。「ぜったい」正しい。ある時期から、それこそ「絶対」の確信がない限り、断言を避けるようになった。作法的にはあまりよくないのかもしれないが、論文のような文章ですら、「〜と思われる」「〜ではないだろうか」と、推定か疑問の調子を使いがちだ。なぜか。これは感覚的にこうなってしまった、としか言いようがないのだが、唯一絶対の現実、というものを疑っている結果なのかもしれない。 

 すべては「かのように」起きる。言えるのはこれだけだ。(20頁)

  重ね合いが起きている「かのように」ある世界。「むかしむかし」で始まるおとぎ話を、実際の出来事だと思うひとはいないだろう。しかし、本当にそうだろうか? 「むかしむかし」に本当にあったこと、「二度あった」ということはあり得るのではないか。

物語を信じる誰かがいるかぎり、同じひとつの昔話が、つねに変わらない夜闇のなかで果てしなく増殖してゆく。昔話に寄せる信頼は、永遠の複数性を備えたあらゆる可能態が至るところに分散してゆくために必要なものだ。(同)

  その直後で、ニールス・ボーアの逸話が語られる。「量子物理学の育ての親」らしいボーアの家には、馬の蹄鉄がお守りとして飾られていた。馬の蹄鉄をお守りにする風習は、私も聞いたことがある。しかし、ボーアは科学者だ。科学者は実証を重んじるはずだ。だから、それを見た弟子は、あなたがそんな迷信を信じるなんておかしい、と責める。このときボーアは、自分はこの迷信を信じてはいないが、しかし「信じてなくても効き目があるらしい」と答えたという。

 こういうことだろうか。信じようが信じまいが、良いことが起きるときには起きる。良いことが起きたときには、蹄鉄にはお守りとして効き目があった、ということになる。となると、蹄鉄には常にお守りになる可能性が秘められている、と考えることもできるのかもしれない。馬の蹄鉄がお守りになる、という物語に託した、と言えるだろうか。

 フォレストは、この章をこのように締めくくる。

 いわば一篇の詩、ひとつの小説だ。ひとはそれをほんとうには信じないままに、自分の運を試すつもりで、そこに考えを託す。寓話がもつ悠久の力に身をまかせ、いくつにも枝分かれする時間の小道をどこでもない場所へとむかって進む一匹の猫の冒険を、虚空のなかに辿るのだ。(21頁)

 「シュレーディンガーの猫」がそうであるように、『シュレーディンガーの猫を追って』も「一篇の詩」であり、「ひとつの小説」であるはずだ。

 猫の冒険を辿っていった先に、いったいなにを見つけるのか。物語は第二章に続いていく。まだまだ序盤。先は長い。

(第3回に続く)

 

参考文献

長谷川眞理子『科学の目 科学のこころ』岩波新書、1999年7月

 

(宵野)

習作としての読書ノート 『シュレーディンガーの猫を追って』第1回

 最近、やってみたいこととやらねばならないことが重なり、ちょっとどっちつかずになっているような気がする。だから、腰を据えてなにかひとつのことを続けてみようと思った。そこで、ひとつの作品を少しずつ読んでいき、思ったことや気づいたこと、連想したことなんかを書き留めていくことにした。まあ日記のような感じで続けていこう、と思っている。そして、できれば最後まで書き終えたあと、それを再編集してひとつの文章にできたりしたら、一種の実験としておもしろいかもしれない、なんて、思ってもいる。

 

 さて、何冊続けていくのかはわからないけれど、栄えある第一冊目に選んだのは、フィリップ・フォレスト『シュレーディンガーの猫を追って』(澤田直・小黒昌文訳、河出書房新社、2017年6月)だ。なぜこれを選んだか。

 ひとつ。私はあまり海外文学を読まない。ゆっくり読むのだし、せっかくならばいつもはあまり読まないものでやるのがいいではないか。

 ふたつ。この作品が私小説的作品であること。私小説は最近の私の関心のあるテーマだ。日本の私小説はぼちぼち読んでいるが、海外の、しかも現代の私小説的な作品にも触れることで、新たな風景が見えてくるかもしれない。

 みっつ。全29章で、一章あたりも10頁程度であり、細かく区切りをつけやすいこと。この方法において、断章形式は都合がいい。

 主にはこれらの理由による。あと、基本的には同時進行で文章を書いていこうと考えている。つまり、極力、先を読み進めない。感覚としては、新聞連載を読んでいくような感じだ。だから、最初の方はなにもわからない状態で書いていくことになるだろう。が、これもまたリアルな読書行為である。読書行為そのものを書き残す。……もしかしたら、最終的にこれはひとつの私小説になるのではないか? いや、しかしそれを目的にしてしまっては本末転倒だ。結果がどうなるかはわからないけれど、とにかくやってみよう。

 

第1回

 

『シュレーディンガーの猫を追って』。もちろん最初に気になるのは、タイトルの「シュレーディンガーの猫」だ。

 当然、私は量子力学についてほとんどなにも知らない。しかし、この言葉は知っている。箱の中に猫がいる。たしか、そこには量子に関係するなんらかの仕組みで、猫を即死させる毒ガスを放出させる装置がある。その装置が発動するかどうか、確実には言えない。このとき、観察者は箱を開けるまで、猫の生死を確認できない。猫は生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない。量子力学には確率解釈と言って、量子を決定論的に表すことはできない。人間が観察することによって結果が定まる、といったような解釈をする。つまり、量子力学的に言えば、箱を開けるまで、猫は生きているのと同時に死んでいる。事態は重ね合わされている。

 しかし、このシュレーディンガーが提示した「シュレーディンガーの猫」というこの思考実験では、本当は、観察者が見ようが見まいが、箱の中で猫は生きているか死んでいるかなのだ。観察者が観察したことで結果が収束するのではなく、観察者は、すでに起きた結果を確認したにすぎない。この思考実験を通して、シュレーディンガーは量子力学の確率解釈を批判した。

 たしか、こんな感じの内容だった気がする。ウィキペディアを覗いてみると、そこまで間違ってはいないっぽい。時間ができたらちょっと勉強でもしてみようか。

 そもそも量子力学がなにを対象とした学問なのかもよくわからないから、なんでこんなことで喧嘩しているのかもいまいちわからない。ここまで来ると物理学なのか哲学なのかよくわからなくなってくる。

 

 ところで、この本の帯には、少し大きな文字でこのようなあおりがある。「量子力学と文学との接点を紡ぐ傑作。」ここだけ見ると、意味がよくわからない。しかし、この奇妙な紹介が、奇妙さ故に、それこそ妙に魅力的だ。正直、「ちょっと難しそうだな」とすでに尻込みしていたりもするのだが、まあまずは読み始めてみよう。

 

 扉には、こんな献辞がある。

科学者たちに捧ぐ

諸々のお詫びを込めて(5頁)

  いったい、フォレストはなにをしでかしたのだろう。思うに、本書で語られる量子力学をはじめとした科学観は、本業の科学者たちにとって受け入れがたい、いってしまえばエセ科学なのかもしれない。エセとは言葉が強すぎるだろうか。なら、都合のいい解釈、ということか。フォレスト、あんたは量子力学のことについて話しているけれど、実際、これはそんな簡単なものじゃないぞ。本当はもっと難しい議論があるんだ。そんな風に言われかねない内容なのだろうか。それで、あらかじめ謝っているのかもしれない。

 しかし、次の頁にはこんなエピグラフがある。

「アインシュタインの物理学に関する本を読んでまったくわからなくても、どうってことはない。それは、べつのことをわからせてくれるのだから」

ピカソ(6頁、「べつのこと」は傍点が打たれている。)

  詫びたそばから、開き直りだ。つまり、「シュレーディンガーの猫」の議論を追っていて、でも量子力学のことがよくわからなくても、それは構わない。それによって、なにか「べつのこと」が見出されてくるのだから、ということだ。フォレストがこれから記すのは、量子力学の分野における「シュレーディンガーの猫」の議論ではなく、フォレスト、あるいは語り手の、「シュレーディンガーの猫」によって「わからせてくれる」ものなのだろう。なかなかおもしろそうだ。しかし、ひとは「シュレーディンガーの猫」を通して小説を書くなど、本当にできるのだろうか。衒学的になりすぎて、小説と言うより量子力学エッセイになってしまわないだろうか。少し心配ではある。

 

 さて、プロローグに入る。冒頭の段落はなかなか冴えている。

 漆黒の闇夜のなかで黒猫を捕まえるのは、この世でもっとも難しいことだと言われる。猫がいなければなおさらだ。(7頁)

  これは孔子の言葉であるという説もあるそうなのだが、作者は日本の僧侶の言葉だと思っているそうだ。

 ともかく、この文章、印象に残る一節であるが、よくよく考えるとちょっとおかしい。「漆黒の闇夜のなかで黒猫を捕まえるのは、この世でもっとも難しいことだと言われる。」これはわかる。闇夜の漆黒に黒猫の深い黒が沈み、輪郭が溶け込む。輪郭のないものを手に取るのは難しい。それはそうだ。「猫がいなければなおさらだ。」これは変だ。そこに猫がいないなら、捕まえるのが難しいもなにも、そもそもいないのだから、捕まえることなんてできるはずがないではないか。だから「なおさら」難しい、というのはおかしい。フォレストも、そのことに気づいている。

 とはいえ、孔子にせよ、その名を借りた無名の思想家にせよ、それが不可能だと断じてはいない。ただ、暗闇のなかで黒猫を見つけるのは困難の極みだと言っているのだ。(7頁)

 ここまで読んでいるときに、なるほど、と思った。「漆黒の闇夜のなか」の黒猫は、闇夜に溶け込んでいて見つけることが困難だ。どこにいるのかわからないからだ。となれば、そもそも、いるのかいないのかすらわからない、とも言える。手を伸ばして、その手が温もりに触れたとき、はじめてそこに黒猫がいるとわかる。

 言ってみて、「シュレーディンガーの猫」の話に似ていることがわかる。偶然か必然か、どちらも猫によって喩えられる。そう考えてみれば、黒猫はまだしも、なぜシュレーディンガーは、思考実験の動物として猫を選んだのだろう。あの実験に、猫である必然性はない。毒ガスで死ぬのは猫に限らない。だから犬でも、ひよこでも、それこそ人間であっても構わない。なのに、なぜ猫だったのか。

 猫について描いた小説で私が思い出すのは、平出隆『猫の客』だ。隣の家に拾われた猫が、家と家の境界を自由に越えて、語り手夫婦の家に入ってくる感覚。抱こうとすると、からだをよじってするりと逃げていく、あの感覚。『猫の客』が描くのは、猫の超然とした立ち振る舞いだ。気がついたらそこにいて、気がついたらいなくなっている、猫。平出は文庫版のあとがきで、「チビがしたように、静かに境をくずすことは私の期したところでもあった。」と、この作品の真意を語っている。猫は、静かに境をくずす。たとえば、存在と不在の境、生と死の境を。いると同時にいない存在。猫こそが、この思考実験にそぐうのかもしれない。シュレーディンガーが猫をどう思っていたのかはしらないが、シュレーディンガーもまた、あの思考実験を考えているとき、猫のそんな存在感が、ふと頭をかすめたのかもしれない。

 さて、繰り返すと、暗闇のなかに黒猫を捕まえるのは難しい、黒猫がいない場合にはなおさらだ。極めて困難である、ということは裏を返せば、絶対に無理、ではない。だから、フォレストはこのように言うのだ。

 わたしは漆黒の闇のなかで目を開く。いくつもの線、染み、影が見え、遠ざかる姿がきらりとする。何かが片隅で蠢き、その波動を、震える虚空に向かって、彼方へと投げかけている。(8頁)

  いるのかいないのかすらもわからない黒猫を見つけようと、目をこらす。しかし、なぜそこまで途方のないことに専心するのだろうか。とんだ徒労のようにも思われる。しかしそれはきっと、このあとに少しずつ、語られていくことだろう。だから、いまはじっと、フォレストの文章に身を委ねつつ、少しずつ、この作品を読み進めていくことにしよう。

(第2回に続く)

 

(宵野)

世界から見捨てられた人々、世界を見捨てる人々 『ファイト・クラブ』から見るテロリズム

 テロリズム、あるいは個人かせいぜい数人の集団による無差別殺人は現代を特徴づける一つのキーワードかもしれない。これらの事象は国内に限らなければ、それこそ毎日のように発生し続けている。それらの原因は政治、経済、宗教、民族など様々な要素に分解されるだろうが、根底にはもっと原初的な欲求があるのではないか。

 つまり現在の世界は無価値であり、それ故に徹底的な破壊が許される。むしろ徹底的に破壊することは善行でさえある。そして、その後素晴らしい新世界を作り直さければならないという二つの欲求である。

 パラニューク*1著『ファイト・クラブ』はそんなテロリズムと深く関わっている作品である。

パラニュークはテロリズムに取りつかれているようにも見える。

 『サバイバー』解説より ページ番号は振られていない。

 

 と翻訳家の柳下毅一郎が的確に指摘するようにパラニュークはこの作品に限らず、テロリズムを題材としている。しかし、その描き方は奇妙で、どこか空想的な形だ。

 『サバイバー』では主人公はいつのまにやら飛行機を乗っ取ってしまい、テロリストになってしまう。いつのまにかテロリストになるというのは、実に奇怪な表現だが実際にそうなのでしょうがない。

 そして作者の代表作でもあり、映画化もされた『ファイト・クラブ』では殴り合いを目的として結成されたファイト・クラブが徐々にテロ組織と化していく。クラブの創始者である主人公*2はその変化に戸惑っていく。

 ここで重要なのは主要人物として、主人公の相方として登場してくるタイラー・ダーデンが主人公のもう一つの人格だったという設定である。この設定はこの小説が一人称であることを活かした小説技術として、あるいはエンタメ的な効果狙ったどんでん返しとしても語れるかもしれない。だが、より重要なのは主人公が二重人格になった物語的な理由だろう。

 主人公は生きている実感を得られずに不眠症に陥っていた。そんな事態を解消するために主人公が最初に選んだのは難病患者たちの互助会であった。主人公と同じように仮病を使って、互助会に参加していたマーラ・シンガーはこう言う。

 生きてるって実感できる。肌に透明感が戻った。生まれてこの方、死人を見たことがない。対比するものがなかったから、生を実感できなかった。

『ファイト・クラブ』p49 以下全て同書からの引用。

 

 主人公と違い、マーラは自分が互助会に参加する資格が無いことを隠そうとはしない。女性にもかかわらず、精巣癌患者の集会に参加するほどだ。そんな彼女の登場によって自分が仮病であることを痛感させられ、互助会から生の実感を得られなくなった主人公は吐露する。

 これはぼくの人生でただ一つのリアルなものなんだ。それをぶち壊すな。 

p27

  主人公は自分が乗っている航空機が墜落する様子を空想し、実際に起こることを願いさえする。明らかな破滅、自殺願望である。何故、彼が生きている実感を得られず、このような破滅願望を抱いているのかは作中からは明確な理由が読み取れない。

 ただ、一つ言えることは彼が現在の自分の人生にうんざりしていたことだろう。生きたいように生きられず、雑事に忙殺される人生に。これは決して珍しいことではないと思う。

 例えば、美味い飯を食べるためには金を稼ぐ必要があり、金を稼ぐためには会社に務めなければならず、会社に務めるためには毎朝そこまで自宅から移動しなければならず、移動するためには燃料が残り少ない車にガソリンを入れておかなければならない。そんなことが世の中には多すぎる。やがて、最初の目的が何だったのかすらあやふやになっていく。

 物語の筋に戻る。マーラの登場で窮地に陥った主人公を救ったのはタイラー・ダーデンだった。家が何者かに爆破された主人公は、偶然出会ったタイラーと一緒に住むことになった。そして彼らはファイト・クラブを発案する。そこでは参加者が一対一で、素手で殴り合う。他人を傷つけ、自らをも傷つけることで主人公は生の実感を得ていく。

 主人公を含む参加者たちは、ファイト・クラブは日常生活と全く別人のように振る舞う。

 ファイト・クラブでの男たちは、現実世界での彼らとは別の人間だ。

 (中略)

 ファイト・クラブでのぼくは、ボスが知るぼくじゃない。

p66

  今の自分は本当の自分ではない。そんな不満を抱いている人間は少なくない。タイラー・ダーデンは主人公のそんな欲求の具現化である。そして同様に欲求不満を抱えた者たちがファイト・クラブに次々と参加する。自分を変身させ、生の実感を得るために。

 しかし、そんな二重の生活を送ることは無理があった。現実的な面で言えば、毎週ファイト・クラブで手ひどく傷つく主人公は上司から目をつけられる。精神的な面で言えば、喧嘩をするぐらいでは破滅願望を抑えることができなくなっていた。

 主人公の片方の人格たるタイラーはこう語りかける。

 (前略)自己改善から逃れ、一目散に破滅へと走らなければならない。事なかれ主義ではここから先へ進めない。

 p97

  そして、主人公はタイラーが石鹸を製造し始めた事を知る。これこそ世界を破滅させる兵器たるダイナマイトの原料になるもの*3だった。そして実は物語の冒頭で主人公の家を爆破したのはタイラー(念の為付け加えると、主人公の別人格である)のこのダイナマイトだったのだ。

 ここで石鹸からできたダイナマイトは主人公の人生を漂白する役割を負っている。石鹸は言うまでもなく体を綺麗にするために使われる、日本語で言えば禊に近い効果を持つ。主人公は刑事に語る。爆破された家具一つ一つが自分自身だったと。それゆえ自分自身が吹き飛ばされたのだと*4。爆破は主人公をいわば一度殺し、別人として生まれ変わらせるために必要だったのだ。

 同時に彼らはさして過激とも言えない悪戯行為に手を付けている。例えば、ウェイターとして働いているホテルの料理に小便を混ぜるなど。ここで主人公は自分たちのことを「テロリスト」と形容するが、この文脈では冗談としてしか捉えられないだろう。自分が食べている料理に小便を混ぜられても、それがテロリストの仕業だと本気で考える人間などいない。

 しかし、主人公は次第にそんな悪戯を退屈に感じ始める。最初はスリリングな行為でも、回数を重ねていけば徐々に魅力を感じなくなるように。その局面を打開するためには、さらなる過激行為を行うしかない。

 悪戯行為を受けたホテルなどへの恐喝を資金源にファイト・クラブは急速に拡大していった。クラブの参加者たちにタイラーは放火や街中での悪戯*5を命じる。ここに至って、破壊行為は組織性を帯び、露見すればまず逮捕を免れないような悪質なものになってくる。

 タイラーは堂々と宣言する。

 我々には、我々一人ひとりに、世界を支配する力がある。

p173

 なりたい自分になる。やりたいことをやる。本当の自分になる。という言葉はほとんどの場合、当たり障りなく使われ、解釈されているが、厳密な意味で全員がそう目指した場合は惨憺たる有様になるだろう。気に入らない上司を殺す。盗みたいものを盗む。そんな事態が頻発することになる。

 ここで私が言いたいのは社会契約だとか、人権調整だとかの話ではない。思い通りにならない既存の世界に服従して生きていくのか、それともありのままに生きるために世界を改変するのかという話である。

 私達は物心ついた頃から法律や道徳に、つまり自分自身以外のものが作り上げた行動基準に、従って生きることを強いられる。逆らえば、親に殴られたり力ずくで止められる。大人になっても反抗するならば、親などとは比較にならない強制力をもった警察や軍隊が待っている。社会的に生きるとはそういうことである。

 実際のところ世界がどのようなものであるかを決するのは、力にほかならない。警察や軍隊が強力ならば、こちらはさらに強力な戦力を、兵器を持てばいい。タイラーが、テロリストたちが目指しているのはそういうことである。

 そしてタイラーに引きずられるように主人公もその考えに取り憑かれていく。

これはぼくの世界だ。ぼくの世界で、古代人は死んでもういない。

(中略)

ぼくらは世界を吹き飛ばして歴史から解放してやりたいと思った。

p176

 文明を破壊することが目的の「騒乱プロフェジェクト*6」が開始され、計画の実行のために多くのファイト・クラブの参加者がタイラー及び主人公と一緒に住むようになっていった。

 こうして平凡な会社員だった主人公はテロリストになった。世界を破壊したいという妄想、願望は時に具体性を持った計画になり、計画は時に実行される。いつのまにやら、現実が妄想に侵食され始め、やがてどちらが現実なのかの区別もつかなくなってくる。タイラーが自分の別人格だと、とうとう悟った主人公に彼はこう反駁する。

 (前略)タイラーはぼくの幻覚なんだ。

「くだらない」とタイラーは言う。「おまえのほうこそ、おれの` ` `幻覚かもしれないぞ」

p242

  ここに来て、主人公は自分とタイラーの性格、行動の違いを強く認識し始める。

 ぼくはタイラー・ダーデンのすべてを愛している。(中略)タイラーは有能で自由だ。でも、ぼくはそうじゃない。

 ぼくはタイラー・ダーデンじゃない。

p251

  自分の理想としてのタイラー・ダーデン。しかし、あくまで理想は理想だったと言うべきか。理想の人間になることは、現状の自分の人格、身体の消失を意味するからだ。分かりやすい例を挙げれば、身体にコンプレックスを抱えている人間の徹底的な全身整形がこれに当たるだろう。外見からは同一人物であることを周囲の人間は判別できないし、手術を受けた自分自身ですら初めて鏡を見た瞬間自己同一性が揺らぐだろう。

 まさしく自己消失である。忌み嫌っていたはずの自分の人格に対する愛着がここでは顕になっている。

 活動がますます過激化し、ついには死者が出るに至って主人公はファイト・クラブを解散する決意をする。しかし、外見はタイラー・ダーデンと同じ主人公の命令を聞くものは誰もいない。タイラー・ダーデンが主人公の意に反する行動を始めたように、ファイト・クラブもまた主人公とは別の意思を持ち始めたのである。主人公はそんな世界を、自分が望んだはずの世界を嫌悪し始める。

 世界は狂い始めている。ぼくのボスは死んだ。ぼくの家は吹き飛んだ。ぼくの仕事ははなくなった。そのすべての元凶はぼくだ。

p276

 あるいはそれは元々の世界に対する再評価と表裏一体であるかもしれない。邪魔だったはずの上司が実際に殺されたときの喪失感。破滅を望んだ世界が、いざ破滅しようとするときの喪失感。

 いずれにせよ、もはや主人公は自分の理想であったはずのタイラー・ダーデンを殺すことを望むようになっていた。小説の終盤で、主人公はタイラーに対して、つまり自分に対して引き金を引く。

 以上主にテロリズムと二重人格の側面から『ファイト・クラブ』を紹介した。だが、この作品は資本主義、キリスト教、アメリカなどの題材を強く含んでいるし、ヒロインであるマーラ・シンガーとのロマンス小説の面もある。紹介しきれなかった魅力は是非自分で読んで確かめてほしい。なお、日本語訳には旧版もあるが、著者あとがきや解説が加えられ誤訳も減っているので、新版をおすすめする。

 本記事ではあまり触れなかったデヴィッド・フィンチャー監督による映画版は、大筋では一緒だがラストシーンは大きく異なる。非常に美しいラストシーンだ。なによりタイラー・ダーデン役のブラッド・ピットはまさしく理想化された男性像にぴったり当てはまっている。こちらも必見だ。

 

文責 雲葉零


参考文献

『ファイト・クラブ』〔新版〕(2015)チャック・パラニューク  訳 池田 真紀子  早川書房

『サバイバー』(2005)チャック・パラニューク  訳 池田 真紀子  早川書房

『Fight Club』(1997) Chuck Palahniuk    Vintage

 本記事は、営利目的でない限り一部分を自由に転載してもらって構わないが、その際には記事へのリンクを貼るなど出典を明らかにすること。記事内で引用されている文章は著者が著作権を持っているわけではないのでこれに含まれない。なお転載は自由だが、著作権を放棄しているわけではない。

*1:私が聞く限り、ポラニックという表記のほうが原語に近い感じは受ける。だが早川書房の翻訳で定着したパラニュークで以下表記する。ちなみにアメリカ人でも初見では正しく発音できないスペルのようだ。

*2:結局作中で彼の本名は明らかにされない。

*3:実際、石鹸からダイナマイトが作れるかは私には良く分からないが、その点はあまり重要ではないだろう。

*4:156ページ。

*5:例えば、ビルの壁面に顔の絵を描き、両目の中心に火をつける。

*6:原文ではProject Mayhem。日本語にするとどうも格好良さがなくなる。

人生の童話~『雪のひとひら』書評~

 新装版が1冊と文庫が2冊、となぜか3冊持っている小説がある。(2冊目の文庫はちょっとした行き違いによるものだが。)ポール・ギャリコ『雪のひとひら』(矢川澄子訳)である。

 題名通り、「雪のひとひら」と作品内で呼ばれる一片の雪の結晶を主人公とした物語、といってしまえば、いかにもメルヘンな感じもする。間違ってはいないのだが、だとすればこれは、なかなか先鋭的なメルヘンかもしれない。動植物が主人公となって言葉を話す物語なら、しばしば見かける。しかし、無機物、しかもそれが一片の雪となれば、話は別だ。

 そんな独創的な主人公を立てて語られる物語の主題は、「愛」や「ある女性の一生」、あるいはそれをもひっくるめた「運命」だ。

 

 ある日、雪のひとひらは空から降って、地上に舞い落ちる。自分はいったい、いつ、どこで、なんのために生まれたのか、なにひとつとしてわからない、雪のひとひら。そんな彼女の旅が始まる。その旅とは、青くさいことは承知で喩えるなら、「人生」という名の旅路である。

 最初に舞い降りた村では、自然のさまざまな風景にときめき、可愛らしい少女に出会ってうきうきした日々を送っていた。しかしある日、雪のひとひらはその少女と友人の手で雪だるまの鼻にされた。そればかりか、その雪だるまは、少女たちの学校の校長先生の目につく。雪だるまは、この校長先生を揶揄したものだった。激昂した校長先生は雪のひとひらもろとも雪だるまを踏み潰す。

 そのうえからさらに雪が降り、夜には表面が凍って、冬の間、雪のひとひらは顔を出すことができない。次に顔を地面から出し、太陽と再会するとき、それは春、いうなれば青春の始まりだった。雪解け水として川へと流れた雪のひとひらは、その流れに乗って、最期の瞬間まで終わることのない旅へと出発するのだった。

 いったん丘を下りはじめてからというもの、雪のひとひらは、どうしても立ちどまることができなくなっていたのです。彼女には知るよしもないことでしたが、これは長旅のはじまりであり、あとはただひたすら走りつづけなくてはならないのでした。いのちあるかぎり、二度とふたたび落着く日はないのでした。(52頁)

 これはけっこう重い表現ではあるが、人生というものを端的に表わしているかもしれない。そして、このあたりから物語のスピードは一気に上がる。この数頁後、雪のひとひらは早くも、「自分もつくづく大人になったものだ」と感じるのだから。

 雷だったり水車だったり、雪のひとひらにはいくつもの苦難が襲う。同時に、どうしようもない寂しさに襲われる。それはこういった理由による。

 なにより気が滅入るのは、自分がひとりぽっちだということでした。なるほど、彼女は四方八方から自分そっくりの仲間たちにとりかこまれてはいましたが、そのこと自体が雪のひとひらをよけいさびしく思わせることだった、というのは、彼らはいずれもわがことにかまけているばかりで、どこからも友情のささやきはきこえてこなかったのです。だれひとり、彼女のことをかまってもくれなければ、こちらがどうなろうと我関せずなのでした。(63頁)

 そんな彼女の生活を変えるのは、ひとりの男性「雨のしずく」との出会いだった。やがて伴侶となるひととの恋により、彼女は人生最高潮の幸せを迎える。そのすぐあと、ふたりは湖に入って、まさしく、つかの間の安寧の日々を手に入れるのだ。

 

 これでちょうど物語の半分、といったところだ。雪と雨の恋、と考えるとたしかに非現実的かもしれないが、中身は、本当にいたって普通の女性の生活である。

 ということは、これからの彼女にはいくつもの試練や災難が襲いかかり、そして老いや別れが待ち受ける。童話チックな物語でありながら、このあたりは本当に重い。しかし、これが本当に人間を主人公にして同じ話をしたならば、あまりにも暗い話になってしまっただろう。主人公を雪のひとひらという女性にしたことで、人類に普遍的な重いテーマについて、まだ軽やかに語ることに成功しているように思われる。

 

 数々の別れを経て、最期のときを迎えるまでの雪のひとひらの自問には、全体から比してかなりの分量が割かれる。自分はなんのために生まれたのか。どうして最期は死ぬことが分かっているのに、生きねばならないのか。

 臨終のこのときにあたり、雪のひとひらの胸にはおさない昔の日々のことがよみがえり、いままでついぞ答えられなかった数々の疑問が舞い戻ってきました。何ゆえに? すべては何を目あてになされたことなのか? そして何より、はたしてこれは何者のしわざなのか?

 いかなる理由あって、この身は生まれ、地上に送られ、よろこびかつ悲しみ、ある時は幸いを、ある時は憂いを味わったりしたのか。最後にはこうして涯しないわだつみの水面から太陽のもとへと引きあげられて、無に帰すべきものを?

 まことに、神秘のほどはいままでにもまして測り知られず、空しさも大きく思われるのでした。そうです、こうして死すべくして生まれ、無に還るべくして長らえるにすぎないとすれば、感覚とは、正義とは、また美とは、はたして何ほどの意味をもつのか?(133、4頁)

 物語のなかで繰り返し語られる、この「何者」。これは、原文では「He」と表記される。大文字の「He」は、もちろん「神」のニュアンスを持つ単語である。神によって作られ、神のもとに帰る。そう言ってしまえば、これはなんと宗教的な童話か、ということにもなろう。

 しかし、たとえギャリコの宗教観が分からずとも、雪のひとひらの一生の小説が「救い」の物語であることは、きっと理解されるだろう。なにひとつとして意味のないものはない。痛み、戦い、愛するものとの別れ、老い、孤独……。そんなものに苦しめられながら、それでも生まれてきた理由が、ぜったいにある。そしてそれは、最期には必ず「He」によって迎えられることで報われる。だからこれは、人生救済の物語なのだ。

 突飛ではあるが、しかし私はここで、この作品が1952年に発表されたこと、そのときポール・ギャリコはすでに50代であったことを考えてしまう。

 ニューヨーク生まれの彼にとっての戦争、そして戦後は、日本人にとってのものと当然異なるだろう。*1しかし、彼もまた戦争を経験した世代、そして終戦後まもなくこの作品を書いた、ということに込められているのかもしれない意思。

 あの、無数の命が声もなく消えていく戦争の最中、そして戦後の荒廃した社会のなか。なんのために自分はこの世に生まれたのだろう、と雪のひとひらと同じ疑問を抱えずにはいられなかったひとは、きっと多かったのではないか。

 それでも生きていく、あるいは、生きていかねばならない。そんな人々への応援歌として、この物語は書かれたのではないか。

 この考えに、なんら実証はない。それでも私は、そんな風に考えてみたい。

 

底本 ポール・ギャリコ『雪のひとひら』矢川澄子訳 新潮文庫 平成20年12月発行

(文責 宵野)

*1:この時代、アメリカは戦禍をほとんど受けなかった戦勝国として、「黄金の時代」と呼ばれるポジティブな時代でもある。しかい、だとすればこそ、その時代にこのような、人間の根源に関わるような重いテーマを扱った小説を、しかも童話チックな仕立てで書いたことに、考えるところがあるかもしれない。

世界を旅する文学 第二回 朝鮮民主主義人民共和国 パンジ 『告発』

知られざる北朝鮮文学 

 第二回の舞台は朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と呼称)である。北朝鮮に対する日本人の一般的な印象は、著しく悪いだろう。拉致問題、核ミサイル開発問題などを対外的に抱え、そのうえ内部では抑圧的な政治体制を敷いてるのだから。特に現在(2018年4月)は、度重なるミサイル発射のニュースが記憶に新しい。

 では北朝鮮文学に対する印象はどうだろうか。そもそも、北朝鮮の文学など少しも知らないという方が多いのではないだろうか。私もこの記事を書く前はその点について全く無知であった。しかし、あの国にも文学が、それもプロパガンダ以外の文学が存在しているのである。

『告発』が世に出るまで

 それが本書『告発』*1である。

 しかし、タイトルから分かるようにこの小説は北朝鮮の体制を厳しく批判したものである。当然北朝鮮国内での出版は望めない。そのため、出版の経緯は特殊なものである。なんと作者パンジ*2は脱北する親戚にこの本の元となった原稿を預けたのである。このような経緯を経て、『告発』は2014年に韓国で出版された。

『告発』の内容

 『告発』は七つの短編から構成されている。この記事では私が特に気に入った短編二つを取り上げる。 なお収録されている小説は80年代後半から90年代なかばのものであり、現在とは少し事情が異なる部分がある。

 『伏魔殿』の主役は夫、孫娘と共に列車に乗っていた老婆である。運悪く、彼らはそこで一号行事に遭遇する。一号行事とは、最高指導者の金日成が当地を移動することである。そのため、彼らを始めとする乗客たちは、乗換駅で足止めを食らった。その時間はなんと、32時間以上である。しかも駅は人で溢れ、食料も乏しい。

 そして老婆はこの駅から歩いていける弟の家を一人で訪ねることを決意する。老婆は妊娠した娘のために熊の肝を譲ってもらう約束を弟としていたのだ。また自分がいなくなれば、残された二人が食料の配給を多く受け取れるという考えもあった。

 駅を出た老婆は乗用車の隊列と遭遇する。これこそ、金日成の車列であった。彼は、列車だけでなく車も使っていたのである。そして、車の中へと半ば無理やり連れ込まれた老婆は彼と対面する。笑みを浮かべた金日成はどこへ行くのかと尋ね、老婆が答えると車で目的地まで送っていくと申し出た。恐縮した老婆は金と一緒の車で移動することは拒んだが、別の車に乗り移った。

 その数日後、老婆の夫は村の外の拡声器から意外な声を聞く。それはコメントを求める記者たちに、老婆が語ることを強要された金日成に対する感謝の言葉であった。

「……父なる首領様におかれましては、私をついに乗用車にまで乗せてくださり車を走らせてくださいました」*3

 しかし、そもそも金日成がいなければ老婆は何の苦労もなく移動ができていたはずである。まさしく、自分でつけた火を自分で消す、マッチポンプそのものである。そのうえ乗換駅では孫娘を始めとする多くの人々があまりの混雑のために怪我をしていた。

 この酷い現実が感動的な美談に作り変えられてしまったのだ。老婆が「残虐な魔術*4」と印象深い言葉で形容する金日成の魔力めいた権力ゆえに。

 『舞台』はその金日成の死去が背景にある作品だ。主要人物は二人の親子。保衛部員*5である父親は、息子の不届きで上司から叱責を受ける。金日成に捧げる花を取るため息子が谷に*6行った際、ある女性と手を繋いだのが不謹慎だというのだ。しかもその女性の父親は政治犯であった。

 憂鬱な気持ちになった父親は、ある時読んだ息子の陳述書を思い出す。その陳述書は軍人時代の息子が反省文として書いたものである。

 そこにはある日の演劇の訓練*7が描写されていた。上官は舞台自感、つまりリアリティがないと息子たちの芝居を批判し、追加で訓練を命じる。しばらくしてから、様子を見に来た上官は皆に大変だろう、腹は減っていないかと尋ねる。すると殆どのものは力強い口調で否定した。

 息子はこれを大変不思議に思った。上官がいない時は皆が不平不満を漏らしていたからだ。さらには何故か、父親が保衛部員である自分や、党の指導員である同僚だけが上官に対して不満を隠すことができなかった。

 この陳述書の内容も相まって、家に帰った父は息子を問い詰める。これに対する息子の反駁は圧巻である。長くなるが、引用しよう。

 

(前略)本当の生活とは自由なところにのみあるのです。抑圧、統制するところほど、演劇が多くなるのです。なんとひどいことでしょう。今、あの弔問所では、すでに三ヶ月も配給を貰えず飢えている人々が哀悼の涙を流しています。花を採ろうと歩き回って毒蛇に噛まれて死んだ幼児の母親が哀悼の涙を流しているのです。ね?庶民たちがこうして流す涙まで、流し方を知る名優の涙と同じにしたててしまうこの現実が恐ろしくないのかということです」*8

 

 この言葉を聞いた父親は激怒したが、ちょうどその時停電が起きた。そのため彼は、金日成の弔問所に慌てて行く。自動車のヘッドライトで明かりを照らすためである。

 そこでは金日成を批判したとして夫が政治犯収容所に入れられた女性までが涙を流していた。このありえない事態に背筋が寒くなり、遂には精神が錯乱した父親は自ら命を断つ。『舞台』という題名には北朝鮮という国家そのものが一つの舞台と化していることが表現されているだろう。

現実と非現実の融解

 本作ではこの二編のように非常に北朝鮮らしい、政治的な小説が収められている。その内容は一読して信じられないようなものであるが、同時に北朝鮮では起こってもおかしくはないと思わされるようなものなのだ。

 もっともあくまで本作は小説である。問題は実際にあったかどうかではなくて、リアリティ(本作の言葉を借りると自感)があるかどうかだろう。あるいは説得力がないか、どうかだろう。北朝鮮という異常な場所が舞台なために、異常な事態も非現実的と断じることができないのだ。

 仮に本作のような内容を日本の作家が書いても、それは完璧な作り事、虚構だと読者に分かってしまう。逆に言えば、『舞台』で描かれているように、北朝鮮そのものが作り事めいているということだ。あるいは現実と非現実の境がはっきりとしていない*9その国を描いた小説に対して、リアリティがないという批判は簡単ではない。

 作者パンジが意図しているかどうかは分からないが、本作はそんな特殊な状況をうまく利用しているように思える。皮肉を込めて言えば、これこそ社会主義リアリズムかもしれない。あるいは非現実的なものが現実的に描写されるという点では、マジックリアリズムと言えるかもしれない。

韓国との差異

 また、この連載で前回取り上げた姜英淑『ライティングクラブ』との落差を大きく感じた。簡単に紹介すれば、この作品では日本人が見ても違和感がないようなありふれた日常が描かれている。そこに政治性はあまり無いように思える。同じ文化圏でも、政治体制の違いで全く異なる文学作品ができあがってしまうのだ。

 政治的でない文学は、ある程度政治的自由がある人間にしか書けないということかもしれない。例えば、作者パンジは北朝鮮の朝鮮作家同盟に所属しているという。この組織の詳しい内実は知らないが、所属していないと作家活動ができない、あるいは不利益を受けるということは十分考えられる。

 前述したようにこの作品に収録されている作品は極めて政治的なものである。超抑圧的な政権のもとでは人々は政治のことを考えざるを得ないのだ。体制に協力するにせよ、しないにせよ。そして、そんな国にも文学は存在していた。

 次回は鴨緑江を渡って、中国を取り扱う。北朝鮮ほどではないにせよ、この国も文学と政治が深く関わっている。

 

文責 雲葉零

関連記事

www.sogai.net

 

 

参考文献

『告発~北朝鮮在住の作家が命がけで書いた金王朝の欺瞞と庶民の悲哀~』パンジ著 萩原遼 訳 太陽出版 2016年

 本記事は、営利目的でない限り一部分を自由に転載してもらって構わないが、その際には記事へのリンクを貼るなど出典を明らかにすること。記事内で引用されている文章、画像は著者が著作権を持っているわけではないのでこれに含まれない。なお転載は自由だが、著作権を放棄しているわけではない。

*1:正式名が長いので、以下この略称を用いる。

*2:パンジとは朝鮮語で蛍の光という意味だという。この作家の存在を報道した、韓国の月刊誌がつけた名前である。

*3:160ページ。

*4:162ページ。

*5:簡単に言えば、警察官

*6:献花のために市内の花壇が取り尽くされてしまったのだ。誇張表現のようにも思えるが、北朝鮮では実際に起こりそうなことでもある。

*7:軍人なのに何故演劇をするのかというと、要はプロパガンダのためである。

*8:192ページ。

*9:とはいえ、日本であれ、アメリカであれ、パプアニューギニアであれ人間社会に演劇、嘘、それも悪い意味での演劇、嘘は付き物だろう。北朝鮮の問題は、その演劇が多すぎるところにあるのかもしれない。

『ソガイvol.2 物語と労働』紹介

 

表紙と裏表紙

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表紙に書いてあるようにソガイ第二号のテーマは「物語と労働」です。

紙版はB5版で80ページ、定価は500円です。

電子版もあります

 

目次と概要(クリックすると該当箇所の一部が読めます)

論考 次元を越えた「瓜二つ」―― 磯﨑憲一郎『赤の他人の瓜二つ』 宵野雪夏 2

 『赤の他人の瓜二つ』を中心に磯崎憲一郎の文体の不気味さが検討されている。一例を上げれば、渡辺直己が言うところの移人称小説という概念にも磯崎の小説が当てはまらないことが本論考では指摘されている。

 

書評 『勝手に生きろ』書評 ブコウスキーは正論に対して虚構で対抗する 雲葉 零 24

 チャールズ・ブコウスキーの小説『勝手に生きろ』ではしばしば労働への言及が見られる。ただし、主人公が目まぐるしく職場を変えるように、肯定的というより否定的な意味合いで。このことを足がかりに労働とブコウスキー、正論と虚構の関係が語られる。

 

創作 『富が無限に湧き出る泉』 雲葉 零 37

 マルクス「ゴータ綱領批判」の一説に出てくる富が湧き出る泉という比喩をモチーフに、労働せずに生活することが可能になった世界が描かれている。

 

書評 ロボットからのギフトの可能性について ~『プラスティック・メモリーズ』所感~ 宵野雪夏 47

 そもそもロボットという言葉が強制労働、強制労働者を語源に持つようにロボットと労働は深く結びついている。このアニメのヒロインでありロボットの一種であるアイラもまた、人間に労働を背負わされていた。その上で、本評論は人間とロボットの労働にとどまらない関係性を考察している。

 

論考 働かないことを夢見た人間たち 雲葉 零 60

本論考では不労主義という概念が導入されている。不労主義とは簡単に言えば、短時間労働や労働の廃絶を主張する思想のことである。論考、エッセー、小説などの形で表された不労主義を比較検討し、不労主義が空想的にならざるを得ないことが語られている。

 

    ソガイ第二号試し読み

 また、以下ソガイの本文の試し読みを公開します。それぞれの文章につき、冒頭が対象となっています。また末尾に参考文献を全て公開していますのでご参考にしてください。

 なお、縦書きが横書きになっている等、冊子との形式的な差異が一部あります。

                                                         次元を越えた「瓜二つ」――磯﨑憲一郎『赤の他人の瓜二つ』

 

宵野雪夏

語り手、移人称小説、不気味

 小説作品において、もっとも仕事量が多い役割を担う者。それはきっと、語り手である。
 たとえば芥川龍之介の短編作品には、作中人物が物語を語るものがいくつもある。しかし、実際にそれを休憩を挟まずに語り尽くすことは、ほとんど不可能に近い。短編作品であっても、それをすべて音読することは難しいのだ。ましてやそれが長編であれば。気の遠くなるような労苦が費やされることだろう。
 同時に、小説は語り手なしでは成り立たない。読者は、語り手を通じて初めて、物語の世界に触れることができる。出来事があるだけでは、小説にはならない。小説を小説たらしめているものは、この仲介者たる語り手の存在である、と言ってしまってもいいかもしれない。それほどの功労者なのだ。
 しかし、そんな語り手がどうにもあやふやで、だからこそかえって、妙な存在感を示している作品がある。磯﨑憲一郎『赤の他人の瓜二つ』の語り手、より正確に言えば、語り手だったはずの「私」は、ちょっと異様な存在である。

血の繋がっていない、赤の他人が瓜二つ。そんなのはどこにでもよくある話だ。しかしそう口にしてみたところで、それがじっさいに血の繋がりのないことを何ら保証するものでもない。――私が初めてあの男と会ったとき、そんな自問自答が思い浮かんだ。それほど男は私にそっくりだった、まるで記憶の中の自分の顔を見ているかのようだった。にもかかわらず、周囲の誰ひとりそれを指摘しようともしない、気づいてすらいないように見えることが、私の不安を煽るのだ。(五頁)

 

 これより後の部分は、ご購入して御覧ください。

 

底本
磯﨑憲一郎『赤の他人の瓜二つ』講談社 二〇一四年一一月

参考文献(試し読み以外の部分も含む、以下他の文章も同様)

安藤宏『「私」をつくる 近代小説の試み』岩波書店 二〇一五年一一月
石原千秋『読者はどこにいるのか――書物の中の私たち』河出ブックス 二〇〇九年一〇月
磯﨑憲一郎『肝心の子供/眼と太陽』河出書房新社 二〇一一年二月
     『世紀の発見』河出書房新社 二〇一二年五月
     『終の住処』新潮社 二〇一二年九月
     『往古来今』文藝春秋 二〇一五年一〇月
     『電車道』新潮社 二〇一七年一一月
     『鳥獣戯画』講談社 二〇一七年一〇月
大岡昇平『現代小説作法』筑摩書房 二〇一四年八月
佐々木敦『小説家の饒舌 12のトーク・セッション』メディア総合研究所 二〇一一年七月
『新しい小説のために』講談社 二〇一七年一〇月
真銅正宏『偶然の日本文学 小説の面白さの復権』勉誠出版 二〇一四年九月
横光利一『愛の挨拶・馬車・純粋文学論』講談社 一九九三年九月
渡部直己『小説技術論』河出書房新社 二〇一五年六月
フォースター『小説とは何か』米田一彦訳 ダヴィッド社 一九六九年一月
http://www.getrobo.com/(閲覧日2018/3/1)

 

                                                       『勝手に生きろ』書評 ブコウスキーは正論に対して虚構で対抗する 雲葉 零

ブコウスキーと労働の奇妙なつながり

 チャールズ・ブコウスキーと言われて、思いつくものはなんだろうか。作品名を別にすれば、酒や詩あたりではないだろうか*1時に酔いどれ詩人と称されるようにこのイメージは間違ったものではない。しかし、そんな破天荒なイメージがある彼の作品を労働という観点から見ても面白いのではないか。この書評はそんな一種の変化球である。

 

これ以後は、ご購入してご覧ください。

参考文献一覧表

チャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ』(2007)    河出書房新社 都甲幸治 訳 
『死をポケットに入れて』(2002)河出書房新社 中川五郎 訳
『パルプ』(2016)       筑摩書房   柴田元幸 訳
桜庭一樹        『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(2009) KADOKAWA

                                                       『富が無限に湧き出る泉』 雲葉 零


 ある日、大都市郊外に忽然と現れた泉は様々な情報媒体の関心を引き起こした。平凡な更地に現れたそれの半径は人の背丈の数倍ほどもあった。僅かに緑色に濁った液体が泉の一面を覆っている。その液体に有害性がなかったことは不幸中の幸いとして捉えられた。それにしても、一体これはどういう現象なのか? 説明を求められた地質学者や役人たちは回答に窮した。というのも、これまでの観測記録に存在しない現象であったからだ。
 とはいえ、多くの人々にとって、これは単なる意外な話題に過ぎなかった。数日が経つと、世間はあっという間にこのことを忘れ去った。
 対照的に困っていたのはその土地の地主であった。この一件により、土地にとんでもないけちが付いてしまったからだ。また現状回復にかかる費用も馬鹿にならない。最も彼の富裕な財産からすれば、この損害はごく一部に過ぎなかったのであるが。
 地主は泉の側にじっと座り込み、考えをめぐらした。忌々しい泉だ。温泉でも湧けば儲けになったのかもしれないが。あるいは油田でも湧けば。そんな馬鹿げた妄想をしながら、彼は泉の中を見つめていた。それにしても、一体この緑色の液体はなんなんだろうか?
 そう思って彼は手を入れる。その瞬間である。突如として、黒い液体が湧き出てきたのだ。調査の結果、それは正真正銘の原油であるということが明らかになった。これこそ大騒動の始まりであった。

 

これ以後はご購入してご覧ください。 

                                                       ロボットからのギフトの可能性について~『プラスティック・メモリーズ』所感~
宵野雪夏

 MAGES.所属のシナリオライター、林直孝によるオリジナルアニメ作品『プラスティック・メモリーズ』(以下『プラメモ』)は、「ギフティア」と呼ばれるアンドロイドが実用化した社会を舞台とした、近未来SF作品である。主人公、水柿ツカサは、親のコネで、ギフティアを製造、管理している大企業「SAI社」に入社させてもらう。しかし、彼が配属されたのは窓際部署である「第一ターミナルサービス課」だった。ここでの仕事は、定められた寿命である八万一九二〇時間(九年強)を迎える寸前のギフティアを所有者から回収すること。それは思い出を引き裂く、報われない仕事。
 ここでの仕事は、人間とギフティアがコンビを組んでおこなうことになっている。ツカサがコンビを組むことになったのは、少女型のギフティアであるアイラ。三年間、現場からは離れてお茶くみ係のような役割を担っていたアイラに、ツカサはかつて出会っていた。エレベーターのなかで涙を流す彼女に、ツカサは一目惚れに近いような魅力を感じていた。さまざまな事件や出来事を通じ、距離を縮めていくふたり。しかし、このときアイラの寿命はもう幾何もなかった――。

 この作品は、既存のジャンルに当てはめれば近未来SF作品であろう。科学技術が高度に発展し、ほとんど人間と区別のつかないアンドロイドが生活に浸透している世界、という設定は、これまでもよく描かれてきた世界観である。アンドロイドは、ロボットのひとつの形態、ということができるだろう。本論では、そして、人間とロボットの友情や恋愛、というテーマも、もはや現代の創作作品において普遍のテーマのひとつとなっている。事実、高度に発達したロボットのなかに、知性や感情らしきものを見いだすことは難しくない。極端な話ではあるが、Pepper(ペッパーくん)と「同棲」する女性もいるらしい。このテーマは、もはや空想のものではなくなっている。まさに「近未来」の世界のことであるのだ。

 

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                                                       働かないことを夢見た人間たち 雲葉零


 働きたくない。あるいは労働時間が長すぎる。こんな言葉を日常生活で聞いたことは、誰しも一度や、二度ではないだろう。本論考を読んでいるあなた自身、そう考えているかもしれない。しかし、この主張というか愚癡は具体性を持った思想、理論に昇華されていないように思える。
 さらには、思想、理論の名前すら共有されていない。これが他の思想だったらどうだろうか。例えば、生産手段を始めとする私有財産の共有化を謳う者たちには共産主義がある。政府の廃止を謳うものたちには、無政府主義がある。
 何故、働かないことを謳う思想には名前がないのか。ひょっとしたら、働きたくないと考える者達は怠け者だから、理論を考えたり、運動を形成したりすることすら面倒だったのかもしれない。とはいえ、名前がない思想を語ることは困難である。そこで、本論考では便宜的に不労主義*2という名称を導入する。不労主義の中核的な主張は以下のようなものになる。
 人間は働かないほうがいい。もし、働くにしても労働時間は必要最低限度に抑えられるべきである。より具体的には、現実の労働者たちの労働時間よりも格段に少ないべきである。と言ったところだろう。ボブ・ブラック『労働廃絶論』の冒頭文は、不労主義の核心を見事に表している。

 人は皆、労働をやめるべきである。
 労働こそが、この世のほとんどすべての不幸の源泉なのである。
 この世の悪と呼べるものはほとんど全てが、労働、あるいは労働を前提として作られた世界に住むことから発生するのだ。
 苦しみを終わらせたければ、我々は労働をやめなければならない 。*3

 このような不労主義を主張している、まとまった量の論考は少ない。おそらく、本論考で紹介するものだけで、日本語で読める文献のかなりの部分を占めているだろう。もちろん、私の調査が足りなかったという可能性はある。また、和訳されていない文献が多いという問題はある。しかし、それらを差し引いても少なすぎるのだ。これはどういうことだろうか? 

 

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参考文献一覧
オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』(1974)講談社 村松達雄 訳
カール・R・ポパー『歴史主義の貧困』(1961)中央公論社 久野収・市井三郎 訳
トマス・モア『ユートピア』(2011) 岩波書店 平井正穂 訳
バートランド・ラッセル『怠惰への賛歌』(2009)平凡社 堀秀彦・柿村峻 訳
ボブ・ブラック『労働廃絶論』(2014) 『アナキズム叢書』刊行会 高橋 幸彦 訳

  細部が異なるが、おそらく同じ訳者による訳文及び、原文が以下のページで読める。なお、本論考は書籍から引用している。
「労働廃絶論        (1985年)」 アナーキー・イン・ニッポン

http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/black1.html

「THE ABOLITION OF WORK」

http://www.zpub.com/notes/black-work.html

 ポール・ラファルグ『怠ける権利』(2008)平凡社 田淵晉也 訳
原文は以下のページで読める。
「Le droit à la paresse」

https://www.marxists.org/francais/lafargue/works/1880/00/lafargue_18800000.htm

(WEBサイトの最終閲覧は全て二〇一八三月二二日である)

マルクス『ゴータ綱領批判』(1975)岩波書店 望月清司 訳

 

(次号『ソガイvol.3 戦争と虚構』の紹介記事です)

www.sogai.net

 

 第26回文学フリマ東京

 第26回文学フリマ東京で批評・創作雑誌『ソガイvol.2 物語と労働』を発売しました。ソガイのブースはカ-41、カテゴリは評論|文芸批評でした。

ソガイ@第二十六回文学フリマ東京カ-41 - 文学フリマWebカタログ+エントリー

 

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 隣のブースはカ-40「クライテリア」さんとカ-42「抒情歌」さんでした。

*1:もっとも現代日本では、名前すら知らないという人が大半だろう。だが、そんな事実はくそったれだ。ちなみに彼に敬意を表して、私は日本酒を飲みながらこの文章を書いている 。

*2:あるいは反労働主義、労働廃絶主義とでも言えよう。しかし、私は不労主義という言葉を気に入っている。それは不労、働かないという言葉の主体性の無さにある。

*3:『労働廃絶論』 九ページ。