ソガイ

批評と創作を行う永久機関

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第13回

 

www.sogai.net

 

「10 天狼星(シリウス)の高みから」

 

 わかっていたことだが、なかなか話が進まないので、だんだんとなにを書けば良いのか、わからなくなってくる。もともと私は綿密なプロットを立てて文章を書くタイプではないのだが、ことこの読書ノートにおいては、それが極まる。とにかく即興で文章を書いていく。論理的整合性があるのかどうか、自分でも大いに疑問ではあるのだけど、あえて振り返らない。書き終えてから一度、さらっと全体を確認するだけにとどめている。すると、書けないな、書けないな、と思っていた割には2000から3000字くらい書いてしまっていたりするのだから、まず手を動かすことは大事なのだな、とその度に思う。からだの動きと思考は連動する。

 

 さて、察しの良い方にはこの300字が字数稼ぎであることを見抜かれてしまうだろう。本題に入ると、今回は少し話が進んで、例の猫が「わたしたち」、つまり「彼女」の猫と認められることになる。それまではあくまでも、庭に現れる所有者不明の猫だったが、ほかに所有を宣言するものが現れず、このふたりがこの猫について占有権を有する形となり、獣医にもそれを認められた。占有については、民法を勉強すると最初の方に出てきたはずだ。あまり多くは語りたくないが、私は学部生時代、少しだけ法律の勉強をしなければならずに、この占有についても、鞄の底で絡まったイヤホンコードのような文章に苛々しながら勉強していた。もっとも、その大半はもう忘れてしまった。

 このように占有を認められた猫だったが、「わたし」は「でも、猫というやつはけっして誰かの占有物になったりしない。とりわけこの猫はそうだ」と語る。飼い猫だったか野良猫だったのかはわからないが、とにかく、この猫はあくまでも自分たちの家を選んだわけではない、「あてずっぽうにわたしたちに白羽の矢を立て、留まろうと心に決めた」。そして、それは「束の間」である。仮住まい、逗留みたいなものだ。

 そして、次の一節はわたしたちにもなじみのある作品の冒頭、その空気を感じさせる。

 名前さえわからなかった。そもそも猫に名前などない。(97頁)

  フォレストが日本文学に造詣があることはすでに話した。では並べてみよう。

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。

  言うまでもなく、夏目漱石『吾輩は猫である』の冒頭だ。ある種の猫に、名前は無い。なぜか。これは猫に限らないことだが、自分の真の名を知られることは、その人に支配されることでもあるからだ。少し違うかもしれないが、『千と千尋の神隠し』で主人公の千尋は、湯婆婆に「尋」の字を奪われる。名前を掌握することで自分の支配下に置くことの象徴とも言える。あるいはもっと卑近な例を挙げてみよう。振り込め詐欺を避けるため、かかってきた電話に対し「もしもし、○○です」と名前を言わないようにする方法があるらしい。これも同様で、初手で名前を教えてしまうと、その時点で詐欺師は優位な立場を手に入れる。『シュレーディンガーの猫を追って』の猫も、『吾輩は猫である』の猫も、さらさら人間に仕える気などない。『吾輩は猫である』の猫に至っては、人間を下に見ているくらいだ。だから、彼らに名前は無いのである。

「わたし」は、この名前の議論を、さらに「物語」に敷衍している。

わたしは自分の名前を言わない。彼女の名前も言わない。ほかのどんな女性の名前も。物語に名前を書き込むことは、その物語の所有権を主張するようなものだ。ところが、物語は誰のものでもなく、だからこそすべての人間に関わるわずかな可能性をもつときだけ、重要なものになりうる。(98頁)

 各人が自由に誰かを選んで、わたしの語る人物たちに重ねてみてほしい。だが、わたしにはそんな必要などない。特定の誰かではなく、すべての人びとに関係し、それが誰であってもかまわないと考えるほうがいい。つまり、取るに足りない出来事も彼らにとっては他のあらゆる出来事と等しく価値があり、そのいずれをとっても同じように大切であるような、そんなひとたちが問題なのだ。(同)

  物語は、その本質からして自ずと開かれているものなのだろう。「直交世界」の考え方とも、これは適合する。無数に張り巡らされた線は、ある一点において偶然に交わる。もしこの世界に一本たりとも完全に平行な線がないと考えれば、任意の二本の線は、どこかで必ず交わる。たとえそれが、悠久の彼方の先だったとしても。

 ところで、「わたし」はこの猫のことを「猫(le chat)」、あるいは一息に「ルシャ(Lechat)」と呼んでいる。直訳すれば「その猫」である。定冠詞le。しかし、『吾輩は猫である』の英訳は「I am a cat」、仏訳は「Je suis un chat」。不定冠詞を冠する猫。訳出すれば、「一匹の猫」あるいは「とある猫」といったところか。この違いはなんだろう。「わたし」はこう言う。「一匹の猫(4字傍点)、としてではなく、猫のかたちをした(8字傍点)現れ」。ここで、私の解釈が誤っていたことがわかる。ここでの定冠詞leは、種を表すときの定冠詞だ。個体ではなく、種としての猫。思い出すのは、この猫は入れ替わりが可能な存在として描かれていることだ。

 語学、翻訳の難しさを改めて痛感する。このleを、定冠詞だからといって機械的に「その」と訳しては誤訳になる。

 それはそれとして、ここで不思議なことが起こる。すなわち、不定冠詞で表される猫のほうが個体が特定され、定冠詞で表された方が不特定だ、ということになる。実は定冠詞とは、このような両義的な意味を備えたものなのかもしれない。

 思考実験のなかにしか存在しない「シュレーディンガーの猫」。そこにいて、かつ、いない猫。この猫にはたしかに、この定冠詞がかぶせられるべきなのかもしれない。

 

(第14回に続く)