ソガイ

批評と創作を行う永久機関

男性作家/女性作家棚—エドゥアルド・ガレアーノ『日々の子どもたち——あるいは366篇の世界史』から

 BOOTH以外の販路も開拓していく、と宣言してからだいぶ時間が経ってしまったが、ようやく1軒、書店に自分たちが作った本を置いてもらうことになった。

 地元の小さな書店、向島の「書肆スーベニア」さん、こちらに「ソガイvol.5」を3冊置いてもらった。文学フリマのような本のイベントももちろん良いが、特別なイベントがない日にも店頭に自分の本が並んでいる、というのも良いものだ。親切にも、書店に本を置いてもらう際の注意点や必要なものまで教えていただき、近く、他の書店にも窺って、お話をしていきたいと思う。

 

 さて、本を置かせてもらったその日、このお店で1冊の新刊を買って帰った。前々から少し気になっていた本が、その新刊棚に並んでいたのだ。エドゥアルド・ガレアーノ『日々の子どもたち——あるいは366篇の世界史』(久野量一訳、岩波書店)。「小説、随想、ノンフィクションやジャーナリズムを自在に結びつけた執筆手法」という紹介からして惹かれるものがあり、そして、1年366日、1日1話、その日にちなんだ出来事について記していく、その掌篇形式が興味深かった。

 一見して日めくりカレンダー、あるいは「今日はなんの日?」的なコラムとも思われる構成だが、その内容は一般的なそれとはずいぶん異なる。その多くは、戦争、植民地主義、女性蔑視、黒人差別、帝国主義、資本主義、独裁政治など、人間の「負」の側面についてのものだ。あまりの惨たらしさに、一篇一篇は短いのだが、読み進める手が重くなる。

 日本について触れられたものだと、3月11日の震災(震災について言及しているのは3月12日の掌篇)、8月6日のヒロシマなどがある。そして、私が特に驚いたもののひとつに、5月16日の文章にあった、「1990年の今日まで同性愛は世界保健機関の精神病のリストに入っていた」との記述だ。

 そんな最近まで?とちょっと信じられずに調べてみると、それは事実で、同性愛が「精神疾患」のリストから外された5月17日が「IDAHOBIT:LGBT嫌悪に反対する国際デー(International Day Against Homophobia, Transphobia and Biphobia)」と制定されていることのほか、性同一性障害が「精神疾患」のリストから外されたのはなんと2019年、つまり去年のことである、ということまで知り、二重で驚かされることになった。

 この他にも、人間は果たして、ここまで惨いことを平気でできてしまい、そしてそのエピソードだけで1年間の日付を埋め尽くすことができてしまうものなのか、と暗い気持ちになる。

 

 最近、私は出版について関心があるので、その関係で触れておきたいエピソードがある。それは1月23日の篇。ヴィクトリア女王の葬儀がおこなわれたこの日に引っ掛けて、当時の大英帝国の社会的規範について紹介している。

 帝国の中心では、礼儀作法を教える作品を読むことが求められた。一八六三年に出版されたゴフ夫人の『エチケット・ブック』が、当時の社会的規範のいくつかを定めていた。一例を挙げると、図書館の書棚に、男性の著者による書物と女性の著者による書物を隣り合わせに置くことは禁じられていた。

 ロバート・ブラウニングとエリザベス・ブラウニングのように、結婚している作家同士だけ、一緒に並べることができたのである。(18頁)

 結婚したら並べても良い、という最後に付された一段落の衝撃も大きいのだが、ここで触れたいのはその前の部分。

 これについては、現代でも思い当たる節がある。

 さすがに現代の図書館は違うだろうが、書店のなかには、一部の棚(しかも、それは小説の単行本の棚であることがほとんど)で、男性作家と女性作家の作品を分けて並べているところが少なくない。

 私は前々から、この分け方については疑問を持っていた。いったい、なんの意味があるのだろうか?というのもひとつだし、もうひとつは、これだけ女性作家が一般的ないま、この分け方は時代の流れに逆行しているのではないか、という不満がある。また、百歩譲って男女で分けるのは認めるとして、だったら、なぜ文芸の単行本ではそれをやるのに、新書、ビジネス書などの他のジャンルはまだしも、同じく文芸が並ぶ文庫本の棚ではそれをやらないのか。その不徹底さと、なぞの文芸聖域化も嫌な感じだった。もちろん、業務上だったり販売戦略の面だったりに利点があるからおこなわれているのだと思うが、それでも違和感は拭えない。

 少なくとも私にとって「女性独特のみずみずしい文章」やら「女性らしい繊細な心理描写」などの評は眉唾もので、むしろ評者の適当さを感じるものだ。第一、文章だけで性別が分かるわけがない、と経験則で考えている。大学時代に匿名で掌篇を提出して読み合う形の講義などで、私の文章は、しばしば女性のものと思われることがあった。当然、それを狙っているわけではない。そして、他の人の文章においてその予感があたる確率も半分程度。つまり、予感はまったく意味を成していなかった。

 たとえば、ミステリー作家として有名な北村薫はデビュー当初、顔を出さない覆面作家として執筆していた。「薫」という名前に加えて、デビュー作『空飛ぶ馬』から連なるシリーズの語り手が女子大学生であったこと、その文体や語りが女性を髣髴とさせるものだったことから、女性説がささやかれていた。どうやら、いまだに女性だと思っている人もいるそうなのだが、ご存じの通り、北村薫は性別としては男だ。

 また、私の話になるが、高校生のときに有川浩の作品をいくつか読んでいた。私はしばらく、有川浩は男性だと思っていた。なぜかは分からない。なんとなく、そう思い込んでいたのだ。

 このような例は他にいくつもあるだろう。つまるところ、こんなものなのだ。研究的視点は別にして、一般読者の水準で考えれば、ひとが語る文章の男っぽさ、女っぽさなど、かなりいかがわしいものだと言える。

 しかしながら、女性が描く少年漫画に対する偏見はいまだに根強いという話も聞くから、これは文芸をこえて、かなり厄介な問題なのかもしれない。最近も『鬼滅の刃』の作者が女性だ、ということが話題になったりもした。もっとも、一部では炎上したとも言われたが、実際はそこまでの騒動にはなっていないと感じる。本当に一部が騒いでいただけ、というのが本当のところだろう。とはいえ、その情報が多少なりともスクープ的価値を帯びることを考えると、やはり、いまだになにかしらの男性/女性作家の区別が存在するのだろう。(もっとも、私はこの作品を読んでいないので、この作品のどこがどう「男っぽい」「女っぽい」と捉えられるのか、などを考えることはできない。)

 もちろん、その人の書いたものに、その人の性別やセクシュアリティがある程度影響しているということはあるだろう。文脈は違うが、作品と作者は別、という主張をしばしば目にする。理解できないわけではないのだが、作品と作者を完全に切り離すことはやはり不可能ではないか、と思う。それは読み手側についてもそうだが、作り手側にも言えることだ。自分と、自分が作ったものは別個の存在、と言い切ることはやはりできないと思う。いくら本人が「この作品は自分の趣味嗜好とは関係がない」と言おうとも、なんらかの形で自分の一部が根っこにあることは疑えない。性についても、そのひとつだ。

 しかし、それは一部でしかない。そして、それはその他の要素と比べて上位に立つ、とまでは言えないものではないだろうか。そのようなことを、この本を読んで考えていた。

 ガレアーノが記していく出来事の記録を読むのが苦しいのは、果たしてそれが惨たらしいからだけなのか。おそらく、それはよくて半分しか合っていない。その残酷さが、いままさに自分たちの身近にも満ち満ちていることを、あるいはいつもは目を背けているそれを、否応なしに思い起こさせられるからだ。

 読み進めるのはつらい。しかし、読む手は止められない。それはなぜだろう。

 過去は変えられない。しかし、過去を知ることで、これからの時間を変えていくことはできる。つまり、その理由はこの本のエピグラフにかかげられた、この本の題名の由来にもなっている一節に尽きるのだろう。

そして日々は歩きはじめた。

そしてそれ、日々がわたしたちを作った。

そしてそのようにして、わたしたちは生まれた、

日々の子どもたち、

調べる人、

命の探索者。

——マヤ人による創世記より

 

(矢馬)

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第15回

 

www.sogai.net

 

第15回

 

 当初の予定では、そろそろ終わっていてもおかしくはなかったのだ。それなのに、まだ半分もいっていない。もちろん、これは私の怠惰というほかないのだが、ペースが落ちていること、そしてモチベーションがいまいち上がらないことには、多少の理由もある。

 まず、これは前回にも書いたような気がするが、だんだんと書くことがなくなってきている。なかなか話が進まない作品ではあるのだろうな、と思っていたが、予想以上だった。ようやく、家にやってくる猫を自分の家の猫にすることになったくらいで、当然、大きな出来事があるわけではない。最初のころはそれでも、私の手持ちの知識や経験から話を広げる、もとい迂回することがかろうじてできてはいたが、さすがに弾切れだ。あと、これはちょっと前まで知らなかったのだが、私と同じようなこと(と言っては烏滸がましいが)をプルースト『失われた時を求めて』で実践している方がいるらしい。柿内正午『プルーストを読む生活』(零貨店アカミミ)である。未読であるため(というより怖くて読めない)、紹介文等のみからの情報だが、私などよりも読書量や知識量があり、かつしっかり継続しているこの本の存在に打ちのめされた感は否めない。

 加えて、いまはほとんど外に出ておらず、からだを動かせていない。加えて、地元の図書館は閉館しており、本屋も、かろうじて近所のスーパーに入っているチェーン店は再開したが、正直、ここの本屋は私を刺激する棚ではない。部数の多い新刊を散歩がてら、あるいは帰宅途中に寄って買うことはあるが、予定外の買い物をさせられた、という経験はほとんどない。批判する気はないが、私にとっての重要度としては落ちる。

 一方、並ぶ背表紙を見ているだけで刺激を受ける書店はいまだに臨時休業。この本屋に行くことは、学生時代とくらべると少なくなってはいたが、どんなに間隔が空いても、ひと月空くことはなかった。多いときには週3日くらい行っていた。

 それが、もうそろそろふた月になろうとしている。同じく背表紙を見ているだけでも良い図書館も閉館しており、おそらく、いま私は反射神経が鈍っている。私は、積ん読することこそが良い、とは必ずしも思わない。読めるなら読んだ方がいいのではないか、と思っている。が、すべての本を読むことができないのは事実だ。そして、ときには背表紙を眺めるだけ、目次を見るだけ、立ち読みでぱらぱらめくるだけ、読むか分からないけどとりあえず買うだけ、といった「だけ」が大きな意味を持つことがあるということも知っている。

 そのような刺激を受ける棚は、ジャンル、時代、雑多である方が良い。売れ筋ばかりが置かれている棚を見ていると、不思議なことに、そのほとんどを読んでいないはずなのに、ああもう知ってるな、と感じることが多々ある。そしてこれは、ネットでも満たせない。これはのちのち考えたいことだが、これは紙の本と電子書籍との違いでもあるだろう。適当に漁るのには、紙の方が向いている。前々から思っていたが、こういう情勢になって改めてそのことを痛感した。

 本を読むにも、文章を書くにも、からだを動かして外の空気を浴びなければならない。なんだか寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』みたいだ。ちなみに、この本も私は未読である。

 

 そろそろ本題に入る。

 第13章は、ちょっと書くことに困る。要となるのは冒頭近く「わたしには猫の性別に関する持論がある」というところだろう。

要点だけを明かせば、猫は雄でさえ雌なのだ。(126頁)

 この章は案外長いのだが、その多くが、猫は雌である。女は牝猫である。という語り手の持論の証明に費やされている。あとは、猫(彼女)との会話、もっといえばピロートークのようなやりとりだ。この辺りはちょっと読んでいて恥ずかしくなってくるし、「とかく男というものは、女をペットのように考え、装飾性とか家庭的といった美徳を基準に評価を下す。それを認めたうえで弁護しよう。ただし、たいていの場合、自分が牝猫だと思うことに歓びを見出すのは女性自身だ——そして、すでに指摘されているだろうが、たとえばそれが雌犬ということはけっしてない」から始まる議論に関しては、正直、ちょっとついていけなかった。 

 といったわけで、この章に関してはあまり書こうと思うことがなかった。

 しかし、これも以前のように、休みの日には意味もなく外に出て、公園に入ってみたり、食べ歩きをしてみたり、買うつもりもないのに服屋に入ってみたり、そしてなにより本屋に入っていたりすれば違ったのかもしれない。このウイルス禍が、いつ沈静化するのか分からないが、これからの生活を考えていかねばならなくなるだろう。

 フライングして、次の章を読んだ。ここでは思索が広がっていったのが一安心といったところか。

 

(第16回に続く)

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第14回

 

www.sogai.net

 

 ようやく100頁を越えた。ところが、問題はすぐに訪れた。この次の「11 猫たちの日々」と「12 シュレーディンガーと呼んでいただきたい」、正直、ちょっと書くことが思いつかない。それでも何かしらは書かなくてはならない。自信はないが、頑張ってみよう。

 前回、「物語」についての考察が挟まれ、私としてはむしろここが肝なのではないか、と密かに思っていたのだが、今回も、猫と物語が結びつけて論じられている。

猫というものは、どこからかやってくるのではなく、戻ってくるものなのだ。(103頁)

  これはおもしろい発想だ。そして、ここで思い出されるのが、いつだったか言っていた、「猫は現れる姿を見せる前に、立ち去る姿を見せる」という原理だ。このふたつの現象は矛盾しない。つまり、私たちが猫を知覚したとき、それは初めて現れたものではないということを別の見方で表現したに過ぎない。もともとそこにある、あるいはあったものを捉え直す。

 これは、物語を語ることと同じだ。

 実際、物語がいつ始まるのかがわかったためしはない。誰もが、しかたなく、最後に語られた話を受けて物語を始める。(106頁)

  物語、というと少し大袈裟になってしまうかもしれないが、もっと日常に即して考えても、これは同じ事が言える。

 たとえば中学校の入学式。真新しい制服に身を包んだ帰り道、春風がさっと吹く。校舎の脇に生えた桜が揺れ、散った花びらが吹きつける。その1枚が、ひらひらと舞ってブレザーの胸ポケットに入った。

 これはちょっとしたエピソードではあるが、花びらがポケットに入ったからこそひとつのエピソードとなったのである。その出来事がなければ、真新しい制服で道を歩いていたことは、とくに物語の要素にはならなかったはずだ。ちなみに、これは私の身におきた実話だ。

 私はいまこの話を、帰り道のところから語った。しかし、これを入学式に向かう道のりから始めることもできるだろうし、桜が開花したニュースにまで遡ることもできるだろう。もっと言ってしまえば、小学校の卒業式にまで遡って、語り直すこともできるかもしれない。(小学校の卒業式と言えば、私の学校ではひとりひとりが壇上に上がって校長先生から卒業証書をもらうのだが、私の番、壇上で名前を呼ばれるのを待って気をつけをしていたときに、どうやら地震があったらしく、呼ばれるまでにちょっと間があったことが思い出される。もっとも、私はその揺れにまったく気づいていなかった。)

 だいぶ余計な話をしてしまったが、物語の始まりは特定できない。つまり、とりあえず語られた物語にも、その前にはさらに別の物語があった、ということである。なにを言いたかったのかわからなくなってきたが、ともかく、この『シュレーディンガーの猫を追って』が、猫を通して亡き娘について随想しているのと同時に、一種の物語論になっていることがわかる。

 

 で、項が改まり、いきなり自分のことを「名前が必要なら、シュレーディンガーと呼んでいただきたい」と言い始め、突然、シュレーディンガーとして語り始める。ここで、たとえば「フェリックス・シルヴェストル」とかだったら「普段わたしにあてがわれている名前にけっこう似てもいる」と言っているから、やはり語り手に「フィリップ・フォレスト」の存在を感じる。

 ここはかなり異質な箇所で、「シュレーディンガー」と名付けられた「わたし」が「自分」のこと、すなわち実在の「エルヴィン・シュレーディンガー」のことを調べ、自分のこととして語っていく、というスタイルをとっている。挙げ句、ある女性との不倫関係、つまり「二重生活」が「重ね合わせの原理」の着想に繫がった、などというトンデモ仮説を語り出すのだから、それは科学者たちに「諸々のお詫び」をする必要がたしかにあった、というものだろう。

 

 (第15回に続く)

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第13回

 

www.sogai.net

 

「10 天狼星(シリウス)の高みから」

 

 わかっていたことだが、なかなか話が進まないので、だんだんとなにを書けば良いのか、わからなくなってくる。もともと私は綿密なプロットを立てて文章を書くタイプではないのだが、ことこの読書ノートにおいては、それが極まる。とにかく即興で文章を書いていく。論理的整合性があるのかどうか、自分でも大いに疑問ではあるのだけど、あえて振り返らない。書き終えてから一度、さらっと全体を確認するだけにとどめている。すると、書けないな、書けないな、と思っていた割には2000から3000字くらい書いてしまっていたりするのだから、まず手を動かすことは大事なのだな、とその度に思う。からだの動きと思考は連動する。

 

 さて、察しの良い方にはこの300字が字数稼ぎであることを見抜かれてしまうだろう。本題に入ると、今回は少し話が進んで、例の猫が「わたしたち」、つまり「彼女」の猫と認められることになる。それまではあくまでも、庭に現れる所有者不明の猫だったが、ほかに所有を宣言するものが現れず、このふたりがこの猫について占有権を有する形となり、獣医にもそれを認められた。占有については、民法を勉強すると最初の方に出てきたはずだ。あまり多くは語りたくないが、私は学部生時代、少しだけ法律の勉強をしなければならずに、この占有についても、鞄の底で絡まったイヤホンコードのような文章に苛々しながら勉強していた。もっとも、その大半はもう忘れてしまった。

 このように占有を認められた猫だったが、「わたし」は「でも、猫というやつはけっして誰かの占有物になったりしない。とりわけこの猫はそうだ」と語る。飼い猫だったか野良猫だったのかはわからないが、とにかく、この猫はあくまでも自分たちの家を選んだわけではない、「あてずっぽうにわたしたちに白羽の矢を立て、留まろうと心に決めた」。そして、それは「束の間」である。仮住まい、逗留みたいなものだ。

 そして、次の一節はわたしたちにもなじみのある作品の冒頭、その空気を感じさせる。

 名前さえわからなかった。そもそも猫に名前などない。(97頁)

  フォレストが日本文学に造詣があることはすでに話した。では並べてみよう。

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。

  言うまでもなく、夏目漱石『吾輩は猫である』の冒頭だ。ある種の猫に、名前は無い。なぜか。これは猫に限らないことだが、自分の真の名を知られることは、その人に支配されることでもあるからだ。少し違うかもしれないが、『千と千尋の神隠し』で主人公の千尋は、湯婆婆に「尋」の字を奪われる。名前を掌握することで自分の支配下に置くことの象徴とも言える。あるいはもっと卑近な例を挙げてみよう。振り込め詐欺を避けるため、かかってきた電話に対し「もしもし、○○です」と名前を言わないようにする方法があるらしい。これも同様で、初手で名前を教えてしまうと、その時点で詐欺師は優位な立場を手に入れる。『シュレーディンガーの猫を追って』の猫も、『吾輩は猫である』の猫も、さらさら人間に仕える気などない。『吾輩は猫である』の猫に至っては、人間を下に見ているくらいだ。だから、彼らに名前は無いのである。

「わたし」は、この名前の議論を、さらに「物語」に敷衍している。

わたしは自分の名前を言わない。彼女の名前も言わない。ほかのどんな女性の名前も。物語に名前を書き込むことは、その物語の所有権を主張するようなものだ。ところが、物語は誰のものでもなく、だからこそすべての人間に関わるわずかな可能性をもつときだけ、重要なものになりうる。(98頁)

 各人が自由に誰かを選んで、わたしの語る人物たちに重ねてみてほしい。だが、わたしにはそんな必要などない。特定の誰かではなく、すべての人びとに関係し、それが誰であってもかまわないと考えるほうがいい。つまり、取るに足りない出来事も彼らにとっては他のあらゆる出来事と等しく価値があり、そのいずれをとっても同じように大切であるような、そんなひとたちが問題なのだ。(同)

  物語は、その本質からして自ずと開かれているものなのだろう。「直交世界」の考え方とも、これは適合する。無数に張り巡らされた線は、ある一点において偶然に交わる。もしこの世界に一本たりとも完全に平行な線がないと考えれば、任意の二本の線は、どこかで必ず交わる。たとえそれが、悠久の彼方の先だったとしても。

 ところで、「わたし」はこの猫のことを「猫(le chat)」、あるいは一息に「ルシャ(Lechat)」と呼んでいる。直訳すれば「その猫」である。定冠詞le。しかし、『吾輩は猫である』の英訳は「I am a cat」、仏訳は「Je suis un chat」。不定冠詞を冠する猫。訳出すれば、「一匹の猫」あるいは「とある猫」といったところか。この違いはなんだろう。「わたし」はこう言う。「一匹の猫(4字傍点)、としてではなく、猫のかたちをした(8字傍点)現れ」。ここで、私の解釈が誤っていたことがわかる。ここでの定冠詞leは、種を表すときの定冠詞だ。個体ではなく、種としての猫。思い出すのは、この猫は入れ替わりが可能な存在として描かれていることだ。

 語学、翻訳の難しさを改めて痛感する。このleを、定冠詞だからといって機械的に「その」と訳しては誤訳になる。

 それはそれとして、ここで不思議なことが起こる。すなわち、不定冠詞で表される猫のほうが個体が特定され、定冠詞で表された方が不特定だ、ということになる。実は定冠詞とは、このような両義的な意味を備えたものなのかもしれない。

 思考実験のなかにしか存在しない「シュレーディンガーの猫」。そこにいて、かつ、いない猫。この猫にはたしかに、この定冠詞がかぶせられるべきなのかもしれない。

 

(第14回に続く)

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第12回

 

www.sogai.net

 

第12回

 

  だいぶ時間が空いてしまった。この間にはいろいろあって、他の文章を読んで論文を書いたり、それとは関係のない文章を書いたり、そもそも雑事に追われて、あまり本を読めない時期があったりもした。世の中でも様々な出来事が起きて、ますます世間というものに嫌気がさしていった。また新たに書き始めるまえに、これまで書いてきたこの読書ノートを読みかえしてみた。今思えば、まだ当時の私は明るい希望を持っていたようだ。果たしていま、同じような筆致で文章を書くことができるのだろうか。不安だ。

 だから、まだ分からないけれど、これからの読書ノートは以前にも増して、脇道に逸れることが多くなるかもしれない。というよりも、作品の方がサブテキストとなってしまう可能性すら危惧している。これは本末転倒だ。しかし、ここは開き直って、とにかく筆の任せるまま書いてみようと考えている。

 

 さて、第二部へと入っていく。第九章「オッカムの剃刀で」。

 オッカムの剃刀とは、本文中でも説明されているが、問題解決のために、無駄な仮説を可能な限り排除して考えていく思考法のこと。単純化、というと聞こえが悪いが、まあ有効性は理解できる。たとえば私がさっきまで挑戦していたナンプレも、盤面を一度に考えてようとすると難しいが、与えられているヒントの数字から、まず特定できるものを見きわめることによって、自ずと他のマスも埋まっていく。この比喩が合っているのかは分からないが、問題解決に必ずしも必須ではない仮定は、そぎ落としておかないと否が応でも視界に入ってきて、余計に思考を混乱させるといったことは、多くの人に覚えがあるだろう。

 しかし、だとすればこの『シュレーディンガーの猫を追って』という随想は、自らどんどん新たな仮定や情報なども盛り込んでいって、剃刀で肉をそぎ落とすのとは逆の方向に進んでいるように思われる。第九章まで進んで、しかも部も改められて、それでも語られるのはいまだに「シュレーディンガーの猫」を巡る出来事の周辺を、ぐるぐるぐるぐる回っている。

 この点については、書き手も理解している。というより、ここまで「シュレーディンガーの猫」を追ってきて、むしろ混乱してきているように感じられる。それでも、あるいはそんな自分を鼓舞するかのように、エクスクラメーションマークを付して、強く主張する。

 こうした状況下では、当時のコペンハーゲン学派がそうだったように、何であれイメージを作り出すという考えを諦め、不可能なイメージの代わりに予測の有効性があれば十分なモデルで我慢するのがもっとも理性的だ。そのうえで、それが現実のどんな描写に対応するかという問いは一切立てない。だがそれでは、元も子もない! そんなことをすれば、世界について真実を語ろうという漠然とした意志を完全に放棄することになるからだ。そして、世界が現れるときの仮象としての諸現象を予測するだけで満足してしまうことになる。(85頁)

 

(……)オッカムの剃刀の原則によれば、与えられた問題に対しては、もっとも単純な解決こそがつねにもっとも正しいのだ。楽観主義ないしは実用主義のおめでたい証しとしか言いようがない——なぜといって、世界が必然的に単純だと示すものなど何ひとつなく、むしろ正反対だと思わせることだらけなのだから!(88頁)

 ここは、まさしく語り手の強い意志を感じる。なにを今更、と言われるかもしれないが、やはりこの、一見学術的な語り口で「シュレーディンガーの猫」を追っている語り手が、けっして透明な語り手ではないことが、改めてわかる。というより、透明な語り手などというものが果たして存在するのだろうか。客観性が求められる学術論文であっても、そこに広義の作家性なるものがあるように、ここ数年の私は感じていた。人間は、まったく合理的な存在ではあり得ない。経済学において、「経済人」という概念がある。これは、経済的合理性に基づいて、自らの利益を最大化するように個人主義的に行動する人間モデルのことだ。もちろん、経済現象を分析するときに、まずこのようなモデルを立てて、それを前提とするところから始める必要があることは分かる。しかし、実際には人間、そんなに合理的な行動は取らない。変数があまりにも多い。この変数の多さは、なにも経済学に限らない。文学研究だって同じだ。だから、同じ研究対象、同じ参考資料を持ちながら、ひとや時によってまったく違う結論の研究が生まれたとしても、不思議ではない。

 さて、これだけ行ったり来たりを繰り返すなかで、やはりここに戻ってくる。

 箱のなかの猫に話を戻せば、猫は、生きていて、かつ〔2文字傍点〕、死んでいると考えねばならない。それは、猫がある世界では死んでいて、かつ〔2文字傍点〕、べつな世界では生きているということだ。(90頁)

 この随想が、およそ合理性とはほど遠いところにあることは、言わずもがなだろう。そもそも、オッカムの剃刀は、問題の解決のために有効な手立てとして提示されている。では、もし問題の解決ではなく、思考そのものが目的だとしたら……?

 ともかく、しかしこの随想はただ同じところを回っているだけではない。少しずつではあるが、変化が生じている。ここまで平行世界についての連想がいくつかあったけれど、ここではそれが、やや進展を見せている。

 「あえて言うならば」と前置きして、「世界は見る見るうちに増殖してゆく一方で、そうして作られたいくつもの世界はたがいに排除し合う」と言い、そして「だから、世界はたがいに平行であると言うよりも、直角に交差していると言ったほうがより正確なのだ」と、言うなれば「直交世界」論が立ち上がっている。

 つねに、至るところで、現実世界は同時にあらゆる方向へと分枝する。あらゆる可能性は、同時に実現されている。仮想と現実のあいだにはもはや区別がない。すべてはどこかにおいて正しい。そして、至るところでまちがっている。すべては純然たる確率に委ねられている。(91頁)

  どうだろう、これはたとえば、ツリーダイヤグラムのようなものを想定すればよいのだろうか? しかし、なるほど。たしかにこの考え方のほうが字面的に、娘が生きている可能性の世界に思いを馳せるこの作品の詩想に、よりフィットするではないか。こんな喩えは良いのかどうか分からないが、RPGゲーム、いや選択肢を選んで話を進める形式のシミュレーションゲームの達成率を100パーセントにすることが途方もない作業であるように、この可能性すべてを見ていくと、その線、あるいは網は、それこそ地平線の彼方まで、無限に広がっている。これを語り手は、「無限宇宙よりもさらに果てしない一種の「メタ宇宙」」と名付けてみる。

 そして言う。「シュレーディンガーの猫」は、まさに「その最初の開拓者にふさわしい」と。古の時代から、とりわけ近代からは明確に宇宙というものを、人間は目指している。技術の粋を、そして莫大な資金を結集させて、危険を顧みず、時には犠牲を払いながら、上へ上へ、人びとは宇宙を目指してきた。しかし、なんということだろう。足もとを見れば、その中身が見えない箱のなかには、上空の宇宙よりもずっと広大な宇宙があったというのか。

 

(第13回に続く)

死者とともに生きる—「100分de名著」大江健三郎『燃えあがる緑の木』を観ながら思ったこと

 初めて、ちゃんと腰を据えて「100分de名著」を観ている。2019年9月は大江健三郎の『燃えあがる緑の木』を取りあげている。大江健三郎は、実のところすこし苦手で、『死者の奢り・飼育』といった短篇はまだしも、『万延元年のフットボール』や『懐かしい年への手紙』といった長篇は、かなり頑張って読んだ記憶がある。だから、それよりも長いであろう『燃えあがる緑の木』は未読だ。しかし、それであっても、この番組は非常におもしろく観ている。ゲストの小野正嗣さんはもちろん、MCの安部みちこさんと伊集院光さんがゲストに出す絶妙なパスが、本作品が未読である視聴者も置いていかず、きちんと引っ張ってくれる。

 さて、すこし苦手だといった手前、その言葉に矛盾するようにも思えるかもしれないが、いま、大江健三郎の作品に興味がある。その理由はいくつかあるのだが、それはこの番組の第2回放送でも、きっちり言ってくれていた。「死者とともに生きる」こと。大江の作品、引用の多いその書き方の根っこにあるのはこの意識だと思うのだ。そして、こと文学においていま私を摑んで離さない意識が、この「死者とともに生きる」ことなのだ。

 

 フィリップ・フォレストという作家がいる。彼については堀江敏幸「時間の森への切り込み」(『アイロンと朝の詩人』所収)などが良い導き手となるだろう。フォレストは元々、フィリップ・ソルレスで博士論文を書いていて、前衛文学や前衛芸術を対象とした批評活動をしていた。しかし、幼いひとり娘が癌を発症、4歳でこの世を去る、そのことが彼を大きく変えた。やがて、彼の関心のひとつは日本の「私小説」となる。とりわけ彼にとって大きな意味を持つ作家が、大江健三郎なのだ。

 大江健三郎の、とりわけ長男・光さんの誕生後の作品の特徴は、現実の大江健三郎や光さんなどを思わせる人物が登場する私小説的書き方、そして、古今東西の書物の引用、果てには過去の自分の作品、あるいは草稿までをも取り込む自己引用にあるだろう。ダンテの『神曲』が繰り返し言及される『懐かしい年への手紙』の下敷きには『万延元年のフットボール』があるし、作中では『個人的な体験』の書き換えすら行われている。そして『燃えあがる緑の木』は、その『懐かしい年への手紙』と地続きの作品だ。この『燃えあがる緑の木』の幹をなす作家があるとすれば、それはイェーツであり、ドストエフスキーである。

 大江健三郎作品には、他者の声が満ち満ちている。引用とは他者の声を受け入れることである、と番組で小野さんが語っていたが、まさにその通りだ。そして『燃えあがる緑の木』のモチーフであるイェーツの詩に描かれる「炎と水の共存」、語り手・サッチャンの両性具有という身体的特徴。『燃えあがる緑の木』では、矛盾するものが共存する空間が志向されている。これは引用についても言え、つまり、自分の言葉と他者の言葉がまさに自他の区別なく、「作品」という場で共存している。それはさらに、生者と死者にも広がる。ホールの完成の式で、ギー兄さんがおこなった説教は、いま自分たちが吸っている空気は森の空気であること、つまり、呼吸という行為を象徴として、ひとは死者とともに生きているという意識を説いている。私たちは、昔誰かが吸って吐いた空気を、いま吸っている。私たちの命には、他者の魂が宿っている。

 不勉強にも、私は『カラマーゾフの兄弟』の主要人物・アリョーシャの名が、ドストエフスキーが幼くして亡くした次男の名前であることを、この番組で初めて知った。息子の死のあとに書かれたということを思うと、この作品に対する見方も変わってくる。ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』を書くことによって、息子を生まれかわらせようとしたのだろうか。すると、大江がドストエフスキーに惹かれている理由も、なんとなく分かってくるような気がする。

 話がだいぶ逸れたが、フォレストに話を戻す。フォレストの「小説」作品のひとつに『シュレーディンガーの猫を追って』という作品がある。かの有名な「シュレーディンガーの猫」という量子力学における思考実験は、ざっくり言ってしまえば、観察されることによって固定される、とする量子力学の考え方を用いると、箱の中の猫が「生きている」状態と「死んでいる」状態が重ね合わせで発生してしまう、というあり得ないことが起きるとの批判だ。しかし、ひとびとを魅了するのは、むしろこのあり得ない重ね合わせの状態なのだ。量子力学については門外漢であるフォレストにとっても同様。彼は「シュレーディンガーの猫」、そして家にやってくる猫への随想を巡らし、そして語るなかで、亡くした娘が生きているもうひとつの世界に思いを馳せる。語ることによって、死者とともに生きる。フォレストはこの語り方を、まさに大江健三郎の作品から取り込んだのではないだろうか。

 伊集院さんが、「そのひとにとっての大事な言葉を集めると、それが自ずと福音書となるのかもしれない」といった旨のことを話し、小野さんを唸らせていた。『燃えあがる緑の木』のひとつのテーマは、神なき人々の信仰であるようだ。しかし、その答えはここにあるだろう。自分を作る、先人の言葉。その普遍的解釈ではなく、それを自分がどのように読んだのか、自分にはこうとしか読めない、と「言い張る」(この「言い張る」という言葉も、この番組でのキーワードとなっている)言葉が、その人その人にとっての「福音書」となるのだろう。 作品を作る度に新たな「福音書」を書き上げてきた大江健三郎。引用に満ちた彼の作品は過去への案内者であるのと同時に、読者にも各々の福音書を作ることを促す、未来への導き手でもあるのかもしれない。

 

(宵野)

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第11回

 

www.sogai.net

 第11回

 

 先日、友人のお宅にお邪魔した。その友人は2匹の猫を飼っていて、そのうちの1匹が黒猫だった。

 人懐っこいキジトラの子と比べるとなかなかこちらに顔を出してこない黒猫の子に近寄る。すると、すすっとからだをよじって、ベッドの下に入り込んでしまった。追ってのぞき込むと、暗闇に溶け込んで姿が見えなかった。それでもじっと見つめていると、耳っぽい線がぼんやりと浮かんで、奥にはこちらを見る瞳の光が灯った。けれども、体勢を変えようと少しからだを動かすと、ようやく捉えたその影は、また闇に消えてしまった。

 猫には「昼間は飼い猫。夜は野良猫」という二重生活を送るものがいる、と指摘したうえで、フォレストは、自分が庭で見た猫について、このように考察する。

 わたしが庭で見た猫は、そんな猫たちの一匹だ。家に居つくようになるまでは、大勢のなかの一匹だったのだ。もっとも猫は、それまでの習慣を捨てたりしなかった。家からいくらか離れたところで出くわすこともある。というか、自分ではあの猫だと思う一匹を見かけながら、わたしには確信がもてない。どの猫も似ていて、暗闇では色の区別がつかない。猫たちが逃げてゆく距離では、シルエットさえはっきりとは見えないのだ。


 他の猫であっても、不思議ではない。 (73頁)

  なるほど。だとすると、私の体験について、こんな想像をすることもできるだろう。

 つまり、友人は猫を2匹飼っているつもりだが、実は、昼には別の場所で生活し、夜にだけそっと友人宅に入り込んでいるもう1匹の猫がいる。私たちの前には、黒猫ちゃんと交互に顔をのぞかせるからなかなか気づけない。だから、私が暗闇のなかで見たと思った猫のシルエットは、あの黒猫ではないもう1匹の子のシルエットだった。

 確かに、私は黒猫がベッドの下に入るところは見た。けれども、もともとそこに猫がいなかったとは確認していない。また、黒猫についても、ベッドの下に潜り込んだときに一度、私の視界から消えた。連続した時間追うことはできていない。

 こんな想像は、ちょっと面白い。いや、もちろんこれは冗談半分の想像だ。けれど、私の想像を補強する訳ではないけれども、飼い猫が、飼い主の知らないところで結構気ままな行動をしていることを発見した研究は、現実にある。

『密着! 猫の一週間』という番組で、その概要を知ることができる*1。これは、イギリスの、猫を飼っている家が多いとある村を対象に、猫に発信器やビデオカメラを取り付けて、その行動を探る実験のドキュメンタリーだ。

 猫は、お互いの行動がかぶらないように、見張りのルートや外出の時間帯をずらしていて、また万が一かち合ってしまった場合は、お互いにうなり声を上げて威嚇はするけれど、後退るようにして、本当の喧嘩には発展しないようにしている、というなかなか興味深い結果も見られるのだが、その中には、ほかのお宅にこっそりお邪魔して、ご飯をいただいている猫もいたのだ。それも、どちらの家の家族も気づかぬうちに。ときに、猫にとっては、他人のお宅もテリトリーに入るのだ。やっぱり境界を越えるものなのだ。

 だから、私の詮無い想像についても、その可能性がゼロとは、言えない。私たちが絶対だと思っている境界も、猫にとってはないようなものなのだから。もっとも、猫には猫で、行動範囲を規定するラインを持ってはいるのだが。

 

 作品に戻る。噂によると、「わたし」が暮らす、というよりは滞在する家のかつての持ち主の男は、ある日前触れもなく溺死したそうだ。死が漂う家。その男が死へと向かう光景を想像しながら、「わたし」はこう述べる。

ひとはいつでも、生きる理由と同じ数だけ、死ぬ理由を胸に抱いている。そして、一方が他方よりも優れている——とか、劣っている——などということはけっしてない。(76頁) 

  この言葉が、私には強く印象に残る。これは、けっして後ろ向きな言葉ではない、と私は思う。小さい頃から、私は死が怖かった。とにかく怖かった。こんなにも身近なのに、得体の知れない無の世界。私だけではない。いまここに生きている人、生きものは、みないつかは死ぬ。その事実が、小さい頃の私には受け入れられなかった。いや、いまだってちゃんとは受け入れられていない。でも、それを怖がり続けていても仕方ない。いつかは死ぬのだ。死の忌避は、生への固執を導く。しかし、生の行きつく先は必ず死なのだ。死から逃れるために生にしがみついたはずなのに、それは死の裏返しでしかない、という不合理。ぎゅっと抱きついた腕の先、自分からは見えない手のひらが触れるのは生ではなく、死なのだ。

 だから、生と死を等価なものとして見ることこそが、本当に死を受け入れ、そして落ち着いて生を送る方法なのかもしれない。そう思うのだ。

 生と同時に死に身を置く。それは、死者とともにある、ということを意味する。もちろん、これは幽霊の存在を肯定するのとは違う。

 幽霊をほんとうに信じているわけではないが、自分は死人の家に住んでいるという説明のつかない感情をつねに抱いてきた。そもそも考えてみれば、少しでも古い家に住めば、結局は死者たちの家で生活することになる。あらゆる種類の亡霊の手を経てきた住まいに暮らす、何番目かもわからない、束の間の住人であり、彼らのもとに遅かれ早かれ合流するのだ。 (77頁)

  この借りぐらしの意識が、「わたし」に所有の否定をさせるのだろう。「自分たちがどこかに住んでいるという感情を抱かなくなって久しい」という言葉を彼に言わせるのも、この意識だろう。

 しかし、「わたし」は現実、自殺しないで生きている。その理由は?

 しばしばひとは、行動の理由に大きな理由を求める。あるいは、確固たる意志を見ようとする、と言ってもよいだろうか。

 いつだったか、番組で採りあげられる有名人やスポーツ選手にドラマがあるのは当然だ、といった話をしたことがある。同様の番組を思い起こしてもらえればよい。彼/彼女らは、再現ドラマのなかで大きな決意で決断を下し、行動する。とくに考えなしに生きている自分などは、ときに恥ずかしくもなる。でも、考えてみれば、もしそれが些細な理由だとしたら劇的なドラマにならないから、物語の筋には採用されない。ひとは、そんな軽い理由を求めていないのだ。決意であって欲しいのだ。なんとなくは許されない。

 これは自殺を報じるときも同様だ。ワイドショーは、ある人物の自殺の動機やメッセージを、あの手この手を使って考察する。ふらっと死んでしまった。そんな可能性は一切考慮されない。

 男女関係、金銭トラブル、病気、事務所トラブル、介護疲れ……もちろん、要因のひとつだろう。しかし、一瞬前までは、まったく死ぬ気などなかったかもしれないではないか。たまたまそのとき窓が開いていて、通過電車が入ってきて、吸い込まれるように死に向かってしまったひと、そういうひとだって、実際にいるらしいのに。

 周りが求めてくる理由など、当の本人にとっては関係のない話である。

もっとも取るに足らない理由によって、ひとは自殺へと追いやられることもある。しかし反対に、もっとも些細な理由が命を救いもする。 (79頁)

  では、「わたし」の場合は?

 わたしのもとに命ある何かがやってきた。わたしにはそれが、命を絶たない十分な理由のように思えた。(同) 

  庭にやってきた猫の存在が、彼のにとっての死なない理由なのだ。

 だから、ここまで続く猫を巡る随想とは、まさに彼の「生きる」という営みなのだ。

 ひとは、庭にやってきた猫によって生きることができる。私にはそれが、とんでもない救いであり、尊い奇跡であるように思え、感動すら覚える。

 

 私もまだ、生きていけそうだ。

 

(第12回に続く)

 

(宵野)

*1:2019/08/16現在、Amazon Prime Videoでも観ることができる